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2003.2.20 日常日記,

本について

あらしのようにものを食べるとあらしのようにうんちが出るように、僕の最近の日々は本を洪水のように読み、文字のうんちをノートやエスキース帳に書きなぐっているといった感じだ。

安部公房という作家にはもうずいぶん長い事影響を受けているが、最近また読むようになってきている。というのも、安部公房の文章の不可解さというのは、不可解なだけに、読む年齢ごとの解釈の変化をもたらすからだ。

なぜ安部公房にまた帰って来ているかというと、最近の自分は、「無意味さ」というのを特に尊重したいと思っているからである。安部公房の文章は一見相当な深い意味がありそうだが、実はあんまり意味がないんじゃないかと思っている。意味性とか、価値性とか、そういう不自由さから抜けることができていることに、僕は興味をひかれているのではないかなあと感じる。

数々の制限というものが存在していて、僕はそれをうっとおしいと思い始めている。その制限というのは、物語りを物語りたらしめたりするとても重要な要素である。
あるいは、これまでの大学生活において、自分が「つくる立場」に変容しつつある今、制限というのはより現実的に降りかかってくる問題である。本来は思想やテーマ、メッセージは自由でありたいのだけれども、その前に制限という重石がどんと乗っかってしまっていて息苦しい。制限は必要不可欠と思いながらも、それありきという状態からは抜け出したいのである。

本、とりわけ安部公房を読むと感じるのは、それはある特定の意味内容を持った単語の組み合わせにすぎないのだということ。それは新聞でも夏目漱石でも同じであるということ。その組み合わせの妙によって生じるある種の魅力、世界というものが存在するのだということ。

2003.2.8 日常日記,

現象学ことはじめ

現象学ことはじめ―日常に目覚めること
最近じりじりと読み進めている本が、「現象学ことはじめ」という本である。

現象学とはフッサールという哲学者が提唱した分野であるが、なぜ人は知覚するのかとか、どのようにあるものと別のものとの区別をしているのかとか、そういう人間の思考の根本的なところを突き進めている学問である。語り口はやさしいのだけれども、非常に難しくて、読んでいるうちに「もうどうでもいいじゃん」と言いたくなってくる。しかしそれでも懲りずに読み進めているのは、やはりとりあげるテーマが興味深いからだろうか。

現象学の本を読んでいると、哲学と言う分野は、現実社会で起こる問題を考えるときのシミュレーション的な役割を果たしているのだなぁと思ったりする。提起された問題について、ああでもない、こうでもないと論考していって、ある答えを導き出す。その答えに、違う考えのひとが批判的に考察して新たなる結論を導く。これは現実社会の問題を対処する行程と同じだと思う。

また、大学でマスコミ論の先生が言っていたのだが、現代社会問題は、突き詰めていくと必ず哲学的・倫理的な問題にぶち当たるという。そういう意味でも、哲学と言う学問は、ぱっと見、実用性はないようだけれども、実はとっても身近で役に立つ学問なのではないかと思ったりした。