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2002.12.15 日常日記

陶芸旅行

高校の友人である庄島のおじいさんのところに、陶芸旅行に行った。メンバーは他には、獅子丸である。もうひとり行くはずだったが、緊急入院のため行けなくなってしまった。前夜から、庄島の家に3人で泊まった。

翌日の早朝4時半頃に無理やり起きて、車で出発。運転は、ペーパードライバーの獅子丸に無理やり任せる。「無理だよ、無理だよ」を連発しながら、一般道から東名高速まで走ってもらう。途中で降りたインターでの富士山が綺麗だった。途中から庄島が運転し、そのまま三重県の松坂市へ。松坂市といえば、松坂牛である。そうすると当然、松坂牛を食べる。

これが、あまりにうまい。もう、言葉では表現できない。そして、値段も凄まじかった。ここでは書けない。そうこうしていると、庄島のおじいさんの工房に到着。薪を割ったりしたあと、ぐい飲みなどを作り始める。作り始めると、もう自分の世界に突入する。

とかく、自分の制作に関する悩みが深くなると、今回の陶芸のように土をいじるとか、そういう創作の原点である行為をするということが、自分にとってなにか有益な結果をもたらすのではないかという気がしてくる。僕は土をいじりながら、美大受験で、とりわけ芸大デザインの2次試験の土はこんなやわらかさだったなぁと思い出した。それで記憶はもっとさかのぼって、小さいとき、砂場で土いじりをしていたことや、海辺で土団子を作ったりしたことなんかも出てきた。

土をいじるということは、その行為自体に価値があるというよりも、それをいじっているときに何を考えているかとか、何を想像しているかとか、そういうことがおもしろいんだなぁと思った。なかなか映像というのは客観的なメディアで、制作しているという「実感」は、土いじりをしているそれとはかなり質を異にしていると思う。

夜は星空のもと、火をくべて、竹を切ってそれに日本酒を入れて熱燗にしたり、そんな感じで過ごした。

陶芸の工房は大自然の中にあったわけだが、やはり自然というのは人にものを考えさせてくれるのだろうか。というか、考えるしかすることがないというべきか…。

そういう意味で、自分は未熟なんだなぁと思った。つまり、まだまだものごとをきちんと考えられていないんだなぁと。安易な想像はできるけれども、芸術の場合は想像することを追求する分野だと思うから、つまり芸術的にも未熟なんだなぁということに繋がっていった。ネガティブと思うかも知れないけど、自分としてはポジティブな発見だった。

2002.12.12 日常日記

イマジネーション

多機能携帯にはあまりいいイメージを持っていない。

昨今、暇つぶしの道具が増えた。電車の中の暇つぶし道具は多い。暇つぶし道具が増えるとはどういうことかというと、それはつぶされる暇が増えるということである。

暇が減るということは、ぽかんとなにかを考える時間が減るということを意味している。ぽかんとなにかを考えるとは、つまり想像するということである。想像は人それぞれだが、暇があればあるほど、その想像はおそらく拡張していくに違いあるまい。

野坂昭如が、近年少年犯罪が増加していることの背景として、「想像力の欠如」を挙げていた。つまり、なにかコトをしでかすときに、そのコトをしたらその後どうなるのかという想像力が働かないために、彼らは犯罪へと行動を移してしまうのだというのである。この考えは、一理あると思う。確かに、もし想像力を複雑に展開することができるのならば、おそらく小さな犯罪においても、その後自分に跳ね返ってくる反動やら悪影響やらといったものに気づくことができるだろう。もし想像力に乏しく、かつ容易に展開することが難しいときたら、そこには短絡的な結末しか生まれて来ないのではないか。

例えば暇な時間ができて、それを埋めるための便利な道具がなければ、やはり人は想像をして時を過ごすだろう。それは想像することの訓練になるし、もしくはその想像で解決される問題というのもあるかもしれない。想像することで彼らが抱えるストレスを少しでも発散できて、その憤りが実際に現実化することも食い止められると考えれば、やはり想像する時間を増やすことは大事なのだと思う。

でも便利で楽しいものに人が転がっていくのは当然のことで、携帯にゲームがつけばそれに夢中になるひとが多くなるのも、まぁしょうがないことだ。ただやはり、どんな商品がこれから出たとしても、想像することよりもおもしろい暇つぶしというのは、無いと思う。