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2003.2.20 日常日記,

本について

あらしのようにものを食べるとあらしのようにうんちが出るように、僕の最近の日々は本を洪水のように読み、文字のうんちをノートやエスキース帳に書きなぐっているといった感じだ。

安部公房という作家にはもうずいぶん長い事影響を受けているが、最近また読むようになってきている。というのも、安部公房の文章の不可解さというのは、不可解なだけに、読む年齢ごとの解釈の変化をもたらすからだ。

なぜ安部公房にまた帰って来ているかというと、最近の自分は、「無意味さ」というのを特に尊重したいと思っているからである。安部公房の文章は一見相当な深い意味がありそうだが、実はあんまり意味がないんじゃないかと思っている。意味性とか、価値性とか、そういう不自由さから抜けることができていることに、僕は興味をひかれているのではないかなあと感じる。

数々の制限というものが存在していて、僕はそれをうっとおしいと思い始めている。その制限というのは、物語りを物語りたらしめたりするとても重要な要素である。
あるいは、これまでの大学生活において、自分が「つくる立場」に変容しつつある今、制限というのはより現実的に降りかかってくる問題である。本来は思想やテーマ、メッセージは自由でありたいのだけれども、その前に制限という重石がどんと乗っかってしまっていて息苦しい。制限は必要不可欠と思いながらも、それありきという状態からは抜け出したいのである。

本、とりわけ安部公房を読むと感じるのは、それはある特定の意味内容を持った単語の組み合わせにすぎないのだということ。それは新聞でも夏目漱石でも同じであるということ。その組み合わせの妙によって生じるある種の魅力、世界というものが存在するのだということ。