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2002.12.7 日常日記

卒業するということ。

昨日、とある用事で、自分の通っていた中学校に行った。中学校は地域でも荒れていることで有名だし、実際荒れていたし、暴力的な方々とお付き合いするのが苦痛な3年間だったことを覚えている。

そんな中学校だったが、昔と今でものすごく変わったなぁと思った点がひとつだけあった。それは、学校に集まる卒業生の数である。確かに僕も卒業してからすぐは割とこまめに学校に行ったし、そのときほかの人たちにも会ったりすることはあったが、しかし、昨日行ったときの卒業生の数たるや、昔の比ではないほど多かった。校門に10人くらい、玄関に10人くらい、ピロティに10人くらい、職員室に居座る6〜7人、職員室を出て廊下でたまっている卒業生5,6人。

僕はそれを見て少し思い出した。

高校を卒業して、とりわけ浪人時代というのは、僕はなかなか高校から離れることはできなかった。ものを考えれば高校の事、友人のこと、教師との確執…いろいろ出てきた。それで大学1年、つまり去年の秋、高校の文化祭に行ったとき、一番お世話になったある先生のところに会いに行ったら、こんなことを言われてしまった。

「きみはまだ、本当の意味で卒業できていないんだ」と。「卒業したんだったら、たぶん今日きみはここには来ていないだろう」と。

僕はがーんとした。それはおそらく、紛れも無い事実を指摘されたのだと思った。自分の存在場所を、まだ高校に求めていた自分に気づかされた。…あのあと一ヶ月くらい考えた。その後いろんなことが自分のなかで整理されてきて、今の自分自身の居所を見つけ出せた頃に、僕はやっと高校を卒業できたのだなぁと思った。

そんなことを、中学校に溜まっているたくさんの卒業生たちを見て思い出していた。彼らもきっと、まだ卒業できていないのではないだろうか、と。見た目は荒れ狂った連中だが、それでも中学校に来て帰ろうとしない姿を見て、なにかとても哀しく切ないものを感じてしまった。「今」というものを肯定的に捉えられないはがゆさとか、苛立ちのようなものが感じられたのだ。

2002.12.3 日常日記,

風の又三郎

新編 風の又三郎 (新潮文庫)
宮沢賢治が、自分の中で盛り上がってきている。

ある日突然、ふと読みたくなって、本屋に駆け込んで2冊買った。もともとますむらひろしの、漫画(アニメ)版「銀河鉄道の夜」は大ファンだったので、そういうことも影響があるかもしれないが、ほんとうに何の前触れもなく僕は買った。

最初に読んだ「風の又三郎」は、少年のころ読んだ印象とまるで違った。あの頃、ただの転校生話として受け止めていたのだったが、(そういう意味で転勤族の僕はある種の共感を抱いてもいたわけだったが)今読むとその不思議な世界がとても刺激的だった。

風の又三郎をはじめ、ほかの話も含めて、宮沢賢治の話のなかの「継続性」「日常性」というところに魅力を感じた。つまりそれは、その話というのはあくまでも以前から続いていて、そしてこれからも続いて行く世界の、ある部分を切り取って描写したにすぎないのだということである。

風の又三郎でいえば、結局「風の又三郎」というのは一体なんだったのか、それは読者には知ることができない。それは三郎という転校生がそうであるとまわりが勝手に言っているだけで、実際に彼が風の又三郎であるということではない。風の又三郎とは、この話よりもずっと前の時間からおそらく語り継がれている伝説であり、それはこの話が終わったあとも語り継がれていくものである。


おそらく宮沢賢治は、地元の子供のためにこの話をつくっていて、おそらくその子供たちにはその伝説が何であるかというのは説明しなくてもよかった、という背景もあるかもしれない。しかし結果的に謎めいたこの伝説に対して、どのようにそれが子供たちの間に存在しているのか、子供たちにとって相対的にどういう位置にいるものなのか、その全てを読者は想像することができる。

その想像は時間を伴って映像化され、そこに自分だけの「風の又三郎」が始まる。そういう作品というのが、僕にはとても斬新に思えてしょうがないのである。