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2008.12.18 日常日記

つれ、づれ。

Twitterを始めてから、Twitterってのは流行るだけの面白さはあるなあと感じている。要するにあれは、寂しい人が、独り言を言うためのサービスなのだ。mixiがtwitterを導入したら、誰も日記を書かなくなるだろうと言われているらしい。独り言がいっぱいあって、それが溢れるばかりだという状況の中で、実際に誰かと出会って、一言二言交わすコミュニケーションの時間は、すこしずつ少なくなっているんだろう。

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世界はうねりの中にあって、新ブレトンウッズ体制がどうたらと言われていて、いま多分地球では、すごく面白いことが起こっているんだと思う。しかしどれもこれも結局は経済の話で、たしかに経済というのは人間の活動にとって根幹になるものなんだと思うんだけれども、なんか世の中が結局は経済基軸で動いているということに対する変な反発心みたいなものがあって、「我関せず」というスタンスで暮らしてゆきたいと思うんだけれども、やっぱり明日の仕事のことが気になってくる。僕はFXに手を出しているわけでもないのに、けっきょくはどこかで、経済のことばっかり考えて生きているのかもしれないなあ。

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毎日なにかを続けていられることはすごい。自分がやっていても、それはすごいんだと自画自賛するだろう。毎日絵を描いている人は画家になれると思うし、毎日お客様のことを考えている人は明日の営業もうまくいくだろう。僕が毎日考えたり、悩んだりしていることも、そういうかたちで報われたならよいなと思う。

2008.12.9 日常日記

両手を上にあげて深呼吸を

何気なく『鶴瓶の家族に乾杯』を見ていたら、鶴瓶が田舎の昔ながらの美容室で髭をそってもらうことになって、それがあまりに気持ちが良いんで眠ってしまったというシーンがあった。よくよく考えてみると、収録中にスヤスヤ眠ることなんて普通、できるだろうか? と思い、じわじわと驚愕した。

面白いのは、あのシーンで「カメラを忘れてうっかり眠ってしまうなんて、プロとして失格だなあ」という話にはならないということだ。むしろカメラが回っていても、カメラが無いときのように振る舞える凄みを感じさせた。

先日、70年代に放映された伝説の子ども番組『カリキュラ・マシーン』のディレクターである宮島将郎さんのトークショーに参加した。数年前にも経堂で同じトークショーに参加したが、そのとき驚いたのは膨大な枚数の、クソまじめな企画書だった。どっかの教育学者が提唱した画期的な教育カリキュラムが理論立てて書かれてある。どこの論文を読んでいるんだという感じの企画書だった。

『カリキュラ・マシーン』はけっこう過激な番組で、墓に医者が聴診器を当てたり、風を吹かせてパンチラを映したり、女の部屋に隠れている間男の数を数えたり、とにかくめちゃくちゃだ。子役は一切使わない、子どもに媚びないということをコンセプトに作っていたらしいのだが、そっちのほうが子どもにウケた。その企画書が、大まじめだったのだから驚くのも当然だ。

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今回もやはりその話になった。「バカも”真剣に”やればやるほど、凄みが出てくるんだ」と仰っていた。その中で興味を惹かれたのは、「コメディの収録ってのは、1発目が一番おもしろい。NGになってテイクを重ねるごとにどんどんつまらなくなる」という言葉だった。僕もつねづねそう思っていたので、あ、宮島さんもそう思っているんだと嬉しかった。しかし、”真剣に”、こだわりを持って面白いものをつくろう、なんていうそれなりに健全な創作精神を持っていると、「1発目がおもしろい」ということを忠実に実行することが意外とむずかしいことに気づく。「いや、もう1回やってみよう…次はもっと良くなるかも…」こだわりとはそういうことだと思ってしまう。1回で終わろう、というのは勇気がいることだ。

何にしても作るのなら手を抜きたくないと思う。でも「力を抜く」という力の入れ方もあるのかなあ、と考えた。鶴瓶が美容室で寝たとき、たぶんそれは意図的ではなかったけれど、でも「カメラがないときのように、普通に」というスタイルというかコンセプトを決定して、実行するということに、かなり力を入れたのだと思う。『カリキュラ・マシーン』も、あれだけ綿密に企画書を作って、教育番組としての哲学みたいなものをしっかり形成していたから、1発目でOKにしてしまう、という”力の抜き方”もバランスとして成り立ったのかなと思う。

今回放映された『もじあるき』では、クオリティとしてのある基準値は満たしていたのだとは思うけれど、なんていうか自分たちに余裕が無いということが浮き彫りになっていた。余裕のない作品は見ていてなんだか疲れる。肩肘を張り続けていたから、作品のなかに緩急というものが欠如していた。力を入れて、『緩』の部分を表現するにはどうすればいいのか、難しいところである。そのために考え続けることこそが、制作に対する真剣な姿勢というものなのだろう。