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2010.6.29 日常日記

お祭り

何にもしていないのに乱高下する内閣支持率。菅さんの一連の発言自体は、その賛否は置いておいて、2010年に入って特にぶれてもいないと思うし、消費税についても言っていることは今年に入ってあんまり変わっていないという気がするけれど、一体何を持って、一ヶ月の間に、支持をしたり、しなかったりというのを決めているんだろう。選ぶほうが軸がなく右往左往しているのなら、選ばれるほうも迷ってしまうだろうなあ。

これまでも、内閣支持率が悪いからといって、勝手にネガティブになって、首相辞任みたいなことが繰り返されて来たけれど、そもそも新聞とかテレビがやってる支持率調査なんて、あんまり気にしなくて良いんじゃないのかなあと思う。すでに「選挙」という、もっとも信頼のおける、もっとも公平な支持率調査があるわけだし、それで十分なんじゃないだろうか。現状の、マスメディアの支持率調査ごときで状況がぐらついている環境では、一回の投票で、数年間をその政党にお任せしないといけないという責任感も薄れていくような気がする。

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W杯はおもしろい。4年前は、元ルームシェアづけしと、夜な夜な試合を観ていた。準決勝のドイツ対イタリア戦の前に、明大前のカラオケに行った。その日はちょうど北朝鮮がテポドンかなんかをぶっ放した。そういうことが、思い出される。個人的にはオリンピックよりも、「4年前はどんなだったっけなあ」と、柱につけた傷を見るように、生活の定点観測の役割を果たしているような気がする。

サッカー自体は、クラブチャンピオンズリーグのほうがレベルが高いのかもしれないけれど、僕の場合は、運動が得意なわけでもないし、サッカーの質だけを見たいんじゃないのだなあと感じる。W杯は、国籍ごとにチームができるので、「似た者同士」が集まって、それがお国柄をとっても表しているのが面白い。国民性や文化の違い、政治的なあれこれ、そういうものが混ざり合うお祭りとしての楽しみがある。

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1年前の今日は、こんなに蒸し暑かっただろうか。去年はクーラーをつけずに過ごせたけれど、今年は、このまま行くとひょっとしたら厳しいかもしれない。別に我慢大会をしているわけでもないので、クーラーをつけること自体は問題ないのだが、僕はクーラーをつけると体調が悪くなってしまう。食べ物にも注意しないといけない。体のメンテナンスは大事だ。

2010.6.27 日常日記

MONEY

何年か前に、ある人が、「フリーランスなら、仕事を頼まれたときに、パッと頭の中で計算して、すぐに相応の見積もりが出せないと、駄目だよ」と、その場にいた別のフリーランスの人に話していたのを、聞いた。

それは僕にとっては、今も昔も、依然として大きな課題である。だから、その会話を聞いて以来、制作とお金の関係ついては、真剣に考えないといけないな、と思っている。

机にある定規を見てみると、ある長さを、それが1cmであると決めているように、何らかの価値が、1円と決められていて、それが集まって、トマトを買えたり、家賃を払えたりする尺度になっている。そういう規定の中で、何かの制作の結果が、何円分の価値があるとされて、自分は生活している。

ところが、何かを創ろうという世界では、創ったものの価値を定規に当てはめてしまうというのは、どうにも釈然としないという向きがある。時給●●円で創っているのではないんです、なにか価値では測れないものを生み出しているんです、などと、主張してしまう。それでも、生活をしなければならない。来月の家賃を払わないといけない。だから、困ってしまうのだ。

社会全体を見渡したときに、創造的労働というものに、どれだけの価値があるんだろうとも考える。せい家でラーメンが500円で売られているのに、自分のデザイン料に●万円とか請求できる価値があるんだろうか。その●万円を払う人は、そのお金を調達するのに、どれくらいの労力を費やしているんだろう。過信や卑屈ではなくて、適正価格を設定する難しさを感じてしまう。

価値自体は、それこそ多様であって、たとえば、創作の斬新さと、食べ物のおいしさを同列に語るのは難しい。しかしお金はすべてのものに同様に価値をつけるのだと考えると、やはり労働的価値も、すべての人に当てはまる尺度で設定すべきなのではないかと考えている。そう考えると、やはり、そのものが完成するまでに、どれくらい時間がかかっているかによって価格を決めるのが、妥当なのではないかと思う。つまりタイム・イズ・マネーだ。ひとりが3ヶ月かけて育てた作物と、ひとりが3ヶ月かけて創った創作物は、同じ値段。これは公平だ。

しかし、人には経験値というものがある。ベテランの農家が3ヶ月かけて育てた作物と、「この本を読めばphotoshopをプロのように使いこなせる」という本を片手にクリエイター気取りが3ヶ月かけて創った創作物を、同列には語れない。つまり、自分は1時間あたりいくらぐらいの労働的価値があるのかを、考えなくてはいけない。

ここから先は、それこそ、文章では表現できない領域な気がする。「自分には1時間あたり、いくらぐらいの労働的価値があるのか」という問いの中には、その人の、その専門領域のなかでの誇りとか、自信、覚悟といった、かなり主観的な要素が入ってくる。これを、今まで自分がしてきた仕事に置き換えてみると、1時間に750円〜1000円くらいという仕事が続いているような気がするけれど、それは、大学時代にしていたサポセンのアルバイトよりも低い。それを考えると、ますます問題は複雑になってきて…。