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2011.8.16 日常日記

杉本文楽 曽根崎心中

杉本博司さんが演出した「杉本文楽 曽根崎心中」を観に行った。伝統芸能を観る機会はあまり無いけれど、妻は人形劇を観るのが小さい頃からの夢で、その夢を叶えるタイミングで、一緒に連れて行ってもらった。

人形劇にリアリズムがあるのか、また人間が演じる劇とはどのように違うのかに興味があった。実際に観てみると、人形とは投影なんだなと思った。もろもろの強い情念なり感情なりが、まるで水をろ過して不純物を取り除くように、余計な情報を取り除いて投影される。舞台装置も音楽も、それとバランスを取るようにシンプルで、余計なものが何もない。人間が演じるのが小さな物語の集積だとすれば、人形はその逆だなと思った。

終盤の心中シーンで、妙にリアルだなと思った瞬間があった。薄暗い森の中で、かつて本当にこういう死に方をした人がいたんじゃないかという気持ちになり、そうするとなんだか怖くなって震えた。繊細な動きで語られているのは、その肉体的な現象ではなく、精神の移ろいのみという感じがして、それが逆に人間らしくて怖かった。

帰りは中華街まで歩き、前から行きたかった台湾料理屋で水餃子とチャーハン、空心菜を食べた。水餃子は皮が厚く、中味も良かった。

2011.8.15 日常日記

受け身

明日から妻の実家への帰省で大阪に向かうので、もろもろのお仕事は、どうにか今日中にケリをつけないといけなかった。そのために(自分にとっては最大の苦行である)早寝早起きを敢行し、先ほど無事にケリがついた。そういえば、大阪ではどういった行動をしようか考えていない。一日は必ず甲子園球場に行きたいと思っている。あと、神戸に行くか京都に行くかなのだが、個人的には現段階では神戸に行ってみたい。やはり港町に興味がある。

暇なはずの先週は、信じられないほど忙しかった。忙しいことはいいことだ、と言われる。それはもちろん分かっている。けれどその先の話をする機会はあまりない。忙しさにも質があるはずだ、ということについて、本当は考えたい。今の僕の忙しさは受け身形なので、そこに危機感を持っている。いろいろな機会が「受け身形」で作られていくとき、物事の判断や、考え方も、「受け身形」の方向に、ずるずる引きずられてしまう感じがする。先日このサイトを作り替えようという時間を持ったときに、僕には「何かをしたい」とか「こうしたい」というような気持ちや発想がひとつもなかったことに驚いた。個別の細かいアイデアはあるのだけれども、なんというか、ビジョンがない。かつて「”ただこなしているだけ”の忙しさは、危ういぞ」と、ある方に言われたことがあったけれども、なるほどこういうことかと思った。

今から浄瑠璃を観に行きます。