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2003.3.23 映画

「A2」

そして、前回の「A」に続き、「A2」である。

この作品はオウム信者が、サリン事件の後、地域住民とどのようなお付き合いをしているかということを追った内容である。しかし、ほとんどの街で、「殺人者出て行け!」の大合唱。起こした事件の残酷さを考えれば、まあ当然の結果なのかもしれない。

しかし、ひとつ例外があった。その街は、オウムに撤退を迫り、施設を監視する地域ボランティア団体があったのだが、長期間監視をしているうちに、オウム信者と仲良くなってしまったのである。からかい合ったり、一緒に写真撮ったり、実際に信者が違う施設に引越する日には、みな別れを惜しんで出迎えに来る始末である。その不思議な光景に、上映会場からも笑いが漏れた。ただ外から「出て行け、出て行け」と鬼の形相で迫っていくよりも、先の街のように仲良くなってしまったほうが、彼らの起こす犯罪を抑止できるのかもしれない。悪だと思ったものを消してしまえばそれでいいという発想は、根本的な解決には繋がらないのではないか。

極論を言ってしまえば、悪なんてこの世から居なくならないわけで、世の中というのはいい奴とか悪い奴とかかっこいい奴とか不細工な奴なんかがそれぞれ秩序や均衡を保ちながら生き合っている。その上手い具合の生き合いかたを、あの街は実現しているような気がした。

「A」「A2」を通して思ったことは、森監督は単にオウムを描こうとしている訳では無いのかもしれない、ということだ。メディアによって一面的に取り上げられている出来事を、自分で見に行って、できるだけ見たまま、感じたままに伝えたいということなのではないか。その対象が、たまたま「オウム真理教」だったというか。森監督の作品は、つねに「マスメディアではこう言っている。しかし…」という語り口で語られているように思う。しかも彼は、マスメディアに対して敵対しているわけではなく、作品の中でしばしば出現する「会社の方針通りに報道せざるを得ないマスコミ」が心の奥で抱えている叫びの代弁者になろうとしているのではないかな、と。 森監督は、そういうことを、「作り手の身体性の刻印や主観の全面的な解放(リーフレットの森監督の言葉より)」によって体現しているんだと思う。