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2011.1.12 日常日記

ランドセルを送る話

今日は早く起きれた。朝に打ち合わせは少し大変だけれども、生活が改善されるので、むしろ朝に色々予定を突っ込んだほうがいいかもしれない。打ち合わせ後、代々木上原にあるブータン料理屋で昼食をとったのだけれど、ブータン料理はディナーだけで、ランチは普通の定食だった。おいしかったけれど、夜のブータン料理が気になって仕方ない。

ランドセルを送るのが流行っているみたいで、そういうのを偽善と言う人もいるだろうけれど、そういうことよりも、わりと多くの人が、誰かのために何かをする”きっかけ”みたいなものを渇望している、ということに注目している。

前にも書いたことだけれども、昨年大阪に行ったとき、親が二児を餓死させてしまったという事件のマンションの前をたまたま通りかかったんだけれども、そのマンションの前に色んな人が置いていった大量のお菓子とジュースが忘れられない。あれは追悼という意味もあるんだろうけれども、どちらかというと、事情を前もって知っていたら、面倒見てあげたのに、ジュースもお菓子もご飯も、いっぱい食べさせてあげたのに、という気持ちの表れのような気がしてならなかった。

何かをしたい人と、助けを求めている人の接点が、なかなか見つかりづらい。これだけツイッターだのSNSだのと、ネットワークを深めるツールがあるのに、そういうものを駆使しても、なかなか自分の気持ちをどこに繋いでいいのか分からない、その手段も分からないという人は、案外多いのではないか。

でも、このニュースを見て、どこかしら感じる違和感というのは、やっぱり、そういう援助とか寄付とかいう自己表現をするときに、誰かの手段や目的をパクっちゃうっていうところなんだろうなと思う。ランドセルとは関係ないけど、「よく事情は分からないまま、気づいたらアフリカの子どもに寄付してた」みたいなことも同じで。ふだんは行き場のない善意も、「この手段を使えば、必ず誰かのためになる」という保険があれば、誰かの行動を真似るのは安心な選択ではある。必ずしも手段や目的をパクっていることが悪というわけではないと思うけれども、それは「何かをしたい気持ちは強いけど実際誰に何をしたらいいのか分からない」というもどかしさが起こさせる行動なのかなーと感じている。この人もそんな感じなのかなーと。それは全然悪いことではないというか、むしろ行動することは素晴らしいけど。

とはいうものの、今回のニュースで、自分も何かできることがあるのかなぁーと思った人は多かったんだと思う。僕は今そういうことをする余裕はないけれども、その立場になったら、したいことは出てくると思うし。そのときは、自分の考えられる範囲の中で、できる事をする、ということに尽きるのかなぁ。そういう慈善事業って、継続こそが大事だと思うので、一過性の流行で今年ランドセルもらっても、来年の児童はもらえない、というような結果にならないような、自分でつづけられることを考えてみたいな。