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2010.6.14 日常日記

やっぱり日記にタイトルつけるの面倒だなあ。

ツイッターを始めてから2年弱くらいになるけれど、最初はただの独り言を吐き出し合う場所だったのが、いつの間にかパーティ会場みたいになっている。パーティというのは華やかな場所で、みんな景気のいい話や、ポジティブな話ばかりをしている。家に居てプライベートに過ごしていても、アクセスすると、パブリックな所にいる気分になる。これがとても疲れるので、あんまり見ないようにしようと思った。毎日パーティに参加するのは大変だ。たまに、でいい。

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感覚が外に向けて敏感すぎるのもどうなのかな、と思っている。これは人によるのだろうけれど、僕の場合は、あまりに色んなものを見すぎたり、感じすぎたりすると、食傷気味になる傾向がある。食べたものをよく消化できずに吐き出してしまうような感じだ。とりわけ芸術作品であったり、デザインであったりというものは、食べ物としては自分にとっては消化性が悪いのかもしれない。そうなるとおのずと、興味の行く先は、それこそ食べ物や、お酒、すばらしい風景や景色、身近なあそび、というものに集約されてくる。肩肘はらずに、自分の五感のうちのどこかを、激しすぎず刺激してくれるのは、僕にとってはそういうものだ。

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とはいうものの、その翌日になって考えてみると、今度は感覚が内に向きすぎるのもどうなのかな、と思った。そろそろ、確固たる自分の価値観や、嗜好などができあがりつつある。その「できあがりつつある」という感じが、どうも気持ちが悪い。できあがったら、その先、何も無いんじゃないかと考えると、なんだか恐ろしくなる。特にフリーランスで生きている人間としては、好みが合わないからと、簡単にそのシャッターを下ろしてしまうのも、自分の広がりを狭めているようで、ちょっと違うんじゃないかと思った。

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この相反するふたつの考え方に悩みつつも、現実としてはいま、僕は閉じていっている。閉じていこうとするのを無理にこじ開けようとしても、たぶんもっと強い力で締め付けようとするかもしれない。けっきょく、これに関しては、成すがままにするしかない。最近セブンブリッジというトランプゲームに凝っている。脳みそを使いながら、使わないでいるこの時間が、妙に心地よかったりする。その後ろでは、古いCDアルバムを流している。このThe Monochrome Setという人たちは何だか絶妙にチープで、絶妙にはずれているので飽きない。

The Independent Singles Collection