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2002.1.8 日常日記

21世紀の幸福

現代実存主義文学の先駆者、フランツ・カフカの「変身」という作品において、主人公のグレーゴル・ザムザはある朝自分が巨大な毒虫に変わっていることに気づく。自分の手足等を見たり、あるいは人間的な動作に支障を来すということを知ったうえで、彼は自らの変身を認識することができたわけだ。しかし彼は自分がどのような毒虫になったのかを正確に確認できたわけではない。なんとなく、毒虫のようなものになった、程度の認識であって、それが他人から見ていかなる毒虫であったかを彼はおそらく知らない。まわりの家族や来訪者の驚く姿を見て自分の姿を想像していたのだろう。

そう考えると、誰しもが、自分のおかれている状況を正確に認識することができないのかもしれない。だから、録音された自分の声を聞いたとき、あまりのイメージの違いに愕然とするし、似ても無いのに「俺はキムタクに似ている」と言い張ったりする。それはもちろん、自分の幸福観についても当てはまることであって、自分が幸福という状況下にいるのならば、それがいかなるものなのかを、なかなか認識することはできないだろう。

昨年、アメリカにおける同時多発テロ事件が起きた。アフガニスタンはアメリカによって報復空爆攻撃を受け、テロとは無関係の民間人が多数犠牲になった。これは不幸な状態である。アフガニスタンは復興に向けての再スタートを切り、メディアは彼らの希望や幸福への願いをこぞって取材しに行った。そこでは子供たちこんな声が聞かれる。「学校に行って勉強したい」「学者になって家族を助けたい」云々…。

彼らの幸福像は明確である。彼らは不幸状態にいて、彼ら自身は自分が不幸だということを認識しているだろう。しかし、それを他と比較してどれほど不幸か、どのような不幸かということの認識は先進国がしていて、彼らがしているのではない。その代わり、彼らは自分にとっての幸福が何であるかを知っている。僕はメディアを通してそのような印象を持った。

僕は「幸福とは?」の問いを考えてみるが、なかなか答えが出てこない。どれもこれも、それは幸福といわれるものの一部なのかもしれないが、幸福を表わしてはいない、そう考えると結局何が何だか分からない。僕はやはり、自分がいま現在幸福状態にいるから、毒虫になったグレーゴル・ザムザのように自分を(幸福を)はっきりと認識できないのではないか、と思うようになった。幸福を明確に定義できる状態、それはアフガンの子供のように、不幸な状態なのではないかと考えるのである。幸福が何なのか分からないことは、この上ない幸せなのだ。

21世紀はどうなるのだろうか。自然破壊が進み、地球は生命の住めなくなる星になるのだろうか。国際的な秩序が崩壊し、第三次世界大戦でも勃発するのだろうか。なんにせよ、21世紀の幸福が失われるのは、ものごとが発生することそのものというよりも、私たちが「21世紀の幸福」の答えを明確に出してしまうことなんだろう。幸福とは何かなんて、知らないほうが幸福なのだ。幸福の答えを吐き出しそうな芽はすべて摘み取っていかないといけない。誰もが、幸福とは…と簡単に言えなくなるようにすることが、実はいちばん理想的なのかもしれない。

2001.12.28 日常日記

まとまらないということ

今日の朝日新聞夕刊に、興味深い記事があった。それは今月27日、つまり昨日死刑が執行された、ある死刑囚に関するものである。その死刑囚は生命保険をかけて、知人ら3人をトラックでひいて殺したという。

僕が驚いたのは、その被害者のうちの、ひとりの遺族のことである。

その被害者の兄は、「生きて償ってほしい」と弟を殺害した死刑囚の、死刑廃止を訴え続けていたのだ。記事では、彼は死刑囚と面会をしていくうちに、謝罪を繰り返す姿に圧倒され、「許した訳ではないが、とことん生きて獄中で一生かけて償ってほしい」と思うようになったという。

僕は死刑制度に関して、細かい知識もないし、ただ死刑に関するニュースを見たり簡単な書籍を読む程度ではあるが、自分なりの関心と、考えを持っている。おそらく、僕の勝手な憶測だが、日本の過半数のひとが、死刑制度は反対なんじゃないかと思っている。

しかし、僕は正直言って考えがぐらついてしまう。そう簡単に反対とは言えないという気持ちが強い。それは、やはり自分が被害者サイドに立ったことがないからなのかなと思う。被害者サイドに立った場合に、僕はやはり加害者に死刑を望むんじゃないだろうか。そんな気がするのだ。

しかし、そういう立場にたつことは稀だ。だから、それを経験しないと判断できないというのはおかしい、そんな声も聞こえてきそうだ。でも僕はやはり、分からない。これは正直な気持ちだ。

しかし今回のように、遺族側から死刑廃止を、という声が生まれたのならば、これほどの説得力を持つものはないんじゃないかと思った。ただ、このような人はやはり少数だろう。どう考えても、死刑を望む遺族が大半じゃなかろうか。

じゃ、賛成かと言われると、はいとは言えない。加害者の遺族にとってみれば、それは被害者の遺族が受けるそれと何の遜色も無い。そもそも人が人を殺すことは罪だ、という主張ももっともだろう。考えても考えても難しい問題なのだ。そういう硬直した局面において、今回の記事は、なにか議論発展のひとつのきっかけを見たように感じる。「遺族感情」という反論を無効にし、さらに先の議論をすることができるだろう。

ところで、大学の英語の授業で、たまたま死刑の是非を書かされたことがあった。先生が不公平な情報(すなわち、死刑反対側に偏った情報)の提示の直後に、その是非を書かせたもので、それは死刑について考えることになるのか、と疑問を抱いて、異議を唱えたところ、口論になった。

僕はどんな議論でも、どんな問題を考えるにしても、ちゃんと天秤が釣り合うような情報が手元になければいけないと考えている。死刑賛成についての情報と、死刑反対についての情報が同等に与えられていなければ、死刑是非をめぐって考えをまとめることができない。同等といっても、つまりどちらかに偏っていない程度でいいわけだ。反対側に偏った情報で組み立てられた死刑是非論など、現実的な結論が生み出されるわけがない。ものごとは常に多面的であるはずなのに、一面だけでしか捉えないで事を進めるのはたいへん危険なことだと僕は思う。

英語の先生は口論の中で、次のようなことをおっしゃった。すなわち、「多くの日本人はいつも問題の答えをはぐらかす」と。「死刑について聞かれると、もっと勉強しなければ賛成、反対は言えない」と言う、と。そう、それはつまり僕のことだ。僕は典型的な日本人かもしれない。 そして「アメリカではまず答えをはっきり出す。まとまっていなくても、どっちかに決める。それで議論を進めていき、結論に導くのだ」という。

大変極端なまとめかたをすると、英語の先生は、日本人もアメリカ人のように思考をするべきだ、というふうに締めくくった。

でも僕はそれを聞いて、僕は典型的な日本人でいいと思えた。ディベートでないのだから、どっちつかずという自分の思いを大切にしたい。どうしても、どう考えても、僕には死刑是非論の結論は今の時点で明確にならない。早急に明確にするメリットも見当たらない。もちろん現実に死刑制度があり、昨日にもふたり執行された事実はある。でも本当に分からない。本当は、死刑は無いであってほしい。でも・・・と、永遠に繰り返している。

答えをすぐにはっきりさせることが、正しい方法なのか?

僕には、それがもとでアフガン空爆を押し切ってやったんだろうというくらいにしか思えない。典型的日本人として、僕は結論を出すよりも、もっともっといろんな立場の意見を聞いてみたい。今回の記事は、その貴重なひとつの立場を提示してくれていて、ひとつまた考えを深くさせてくれたように思える。