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2002.9.4 日常日記,

霊柩車の誕生

新版 霊柩車の誕生 (朝日選書)

さいきん、「霊柩車の誕生」という本を読んだ。

霊柩車の誕生を社会学的、民俗学的に読み解き、さらにはそのデザインを芸術史、建築史の観点から紹介している。これはすごい本だ。まさにマニアック。著者には失礼だが、僕の人生テーマである「一生懸命バカをやる」をまさに体現しているのである。きっとこの人は数年後自家用霊柩車を買うだろう。

この著者の井上章一という人の、霊柩車に対する情熱は並大抵のものではない。周囲からは「霊柩車の井上」と呼ばれているらしい。僕だったらそんなあだ名は絶対に嫌だ。

しかし確かに、霊柩車とは気になる存在である。気にならない人は決していないと思う。だってあんな派手な車、無いもん。ここで著者は「霊柩車のポルノグラフィー」について語っている。すなわち、現代人は死者を直視しようとせず、隠そうとする傾向にある。霊柩車はこの流れを汲んで決して死者は見えないのだが、中に死者がいるということを決定的に暗示している。つまり見えないのに見えているのである。こうすることにより、秘所が持つ価値を上げているということらしい。エロティシズムにおける、隠すからこそ見たい、見えているものは価値が高いというのと同じである。見えないからこそ格式高いのである。

そんなこんなで、意図せずして、霊柩車にめっぽう詳しくなってしまった。

2002.8.16 日常日記

あってもなくても。

この世にあってもなくても良いものというのがとても大事だと思う。

まずはそういうものを許容する心のありように価値がある。逆にそういったところで必要・不必要と線引きばかりしている人なんてのは、僕にとってはおもしろみのない人だ。

必要なものと不必要なものはすぐに選定することができる。必要なものを追求するのは、ごく当たり前の行為であって、その結果に対する確実性みたいなものがある程度保障されている。

それに対して「あってもなくても良いもの」を追求するのは、大変デンジャラスなことである。それは存在したところで確実な存在理由を見出せない。それを無視したとしても世の中は動くし、世界は変わらないのである。つまり徒労と思われても致し方ない部分がある。

あってもなくても良いものに一生懸命になれるのは、相当ヒマな人か、世捨て人か、社会のゴミか、まぁそんなところである。そして表現者なんてものは「あってもなくても良いもの」を追求する人である。それをする人が少ないから、それをする人は、それなりに大事にされるんだろうし、不必要なときにはいつでも切り捨てられるんだろう。