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2009.5.27 日常日記,映画

スラムドッグ・ミリオネア

スラムドッグ$ミリオネア [DVD]

最近「スラムドッグ・ミリオネア」という映画を見て、映画を見るということ自体が久々だったのだけれど、それでも楽しむことができた。できたのだが、どうしてこの作品はこんなにもせわしないのだろう、という印象が、どうしても自分のなかで気になった。それは多分、この作品だけではなくて、エンターテインメントを志向していればどの作品でも、きっといろんなものは大方、せわしなくなるんだろうなぁと思った。なんとなく、最近感じていることだったのだ。

このせわしなさの背景には、圧倒的な「観客の飽きっぽさ」が感じられるわけで、もっとじっくりと描いてもいいであろう内容を、こんなにも駆け足で紹介しなければならない、その「飽きっぽさ」なるものの背景って、いったい何なのだろうと思わずにはいられなかった。これは純粋に、退屈に対する嫌気というものが相当なレベルに達しているという表われなのか、それとも単純に、表現者の「おせっかい」の結果なのか。または、自分だけの問題なのかもしれない。

運転免許を取り立ての状態では、60km/hという速度は恐れを抱くほど速く感じられるけれども、その後、車の運転にもこなれてきて、高速道路で140km/hくらいでかっとばしてから、目的のICを降りてゲートをくぐるまでのあの60km/hは、まるでカタツムリが歩いているかのようにゆっくりだ。映像表現でもそういうことが起こっているのかなと、僕はそういうふうに、感じた。

実験映像などを見ると、一時間くらい展開も無い映像がただ、垂れ流されているものがあって、内容によるけれども、僕はそういうものを普通に最後まで見ていられる。だから、僕の速度感覚が、単純に「あまりにも遅い」ということなのかもしれない。そこらへんの基準が、どこかの世界機関によって定められているわけではなく、あくまでも受け取る側のさじ加減というか感覚に寄っているから、ひるがえって作る側にまわることになると、どうしていいのか、戸惑ってしまう。本当は戸惑わなくてもいいのかもしれないけれど、一応いろんな人が見るんだなあなどと思ってしまうと、やっぱり戸惑ってしまう。

でもはっきりと分かることは、やっぱり退屈であるということは、エンターテインメントとしては、ネガティブな要素だということだ。僕はそこの時点で、どこか違和感を覚えてしまう。たぶん、だから考えてしまう。

2009.5.8 日常日記

僕の好きな先生。

20090508

久しぶりに日記らしい日記を書こう。

最近は何をしているのかと言われれば「もじあるき」を作っているのだが、延々と作っているとさすがに疲れる。オンエアは不定期かつ単発なのでのんびり作っているように思われるのだろうが、作っているほうとしては日々が修羅場というか、休みという休みがない。なにかをゼロから作るのには膨大な労力が必要なのに、テレビというメディアは水道を流しっぱなしにするように、朝から晩まで毎日毎日たれ流しである。自分が作ったものも、あっという間に流されてしまう。その不均衡の中で、よく分からないスケジュールを強いられている。強いられているというか、そのスケジュールに準じたほうが誉められるんだろうなというスケベ優等生心が自分にどこかムリをさせてしまった。

人はそれほど情報インフラを必要としているんだろうかと考える。心底、テレビが24時間恒常的に面白いコンテンツが流れていてほしいものなんだろうか。インターネットが常時高速で接続されているのは確かに便利だが、必要かどうかと問われると別にそれが15時間くらいでも良い気がするし、そうなったら生活もそれに順応するような気がする。無くてもいいものが当たり前のようにあるから、それが必要かどうかが判断される前に「あるようにしろ」という無意味な需要が発生する。そのゴミためみたいな需要で食わせてもらっている僕が言うのもなんだが、それは果たして必要なんだろうか。明らかに供給とのバランスがおかしい気がしてならない。

前にもこういうことを書いていたら某所から検閲みたいなことがあったのだが、正直いまはそういう圧力がどうでもいい。僕は言いたいことを書くし、そのために自分のドメインを取りサーバを維持している。時代は、自分も自分というひとつのメディアを持つことを可能にしてくれた。そして、忌野清志郎が居なくなってから、「ただ思ったことを言う」ということの、とてつもない大事さを思うんだ。