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2016.10.19 子育て日記,日常日記

沐浴の卒業

最近、ついに沐浴用のベビーバスを卒業して、子どもをふつうのお風呂に入れることにしました。通常は生後1ヶ月でそうするようですが、僕の場合はずるずると5ヶ月も経ってしまいました。

そうすると入浴方法もこれまでとは変わってきます。沐浴の場合は僕自身は服を着たまま、子どもの首を片手で支えて(そうすると体が水に浮く)体を洗っていました。一方、一緒にお風呂に入る場合は、まず僕が裸になって自分の体を洗い、その後子どもの服を脱がせ、浴室に入れるという流れになります。子どもの体を洗う時も膝の上で洗う必要があり、これになかなか慣れませんでした。が、まぁどうにかなるものですね。色々試してみて、なんとなく自分の洗いやすい子どものポジションなどが分かりつつあります。僕の場合は対面で抱いて洗うスタイルを取っています。

毎日だいたい夕方に子どもをお風呂に入れることにしているので、必然的に僕も夕方お風呂に入ることになりますが、案外これが気持ち良く、一日の中の良いリフレッシュになっているように思います。その後、夜に仕事をする場合も集中力が少し違いますし、飲みに行くときも銭湯上がりで飲むみたいな気分になれます。

睡眠時間、起床時間、食事の時間などなど、生活スケジュールが必然的に子どもに合わせる形になってきていますが、それはとても健康的で、精神的にも良い影響があるように感じている今日この頃です。

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「うつはどっちかというと肝硬変とかの仲間」という認識に同意します。僕もうつの気があるのですが、もはやこれを完治させるというよりは、それとどうやって仲良くなり、うまく共存しながら日々を過ごしていくかという方向で向き合っています。


仕事でも僕は徹夜は大嫌いですし、できるなら避けたいと思っています。徹夜の背景には、とにかくスケジュールの問題があり、その背後には「ギリギリまで粘ったほうが良いものができる幻想」とか「締め切りをギリギリに設定してもなんとか良いものを出してくれるという幻想」みたいなものがあると思います。つまり徹夜したほうが(徹夜させたほうが)良いことが待っていると思っている人は思いの外多いのです。この記事のように「効率が悪い」ということが広くしっかりと認識されていくと、社会全体が、”自分たちの利益向上のために”徹夜は避けようという流れになるのではないかと期待しています。


たとえば僕と似たような性質の(つまり器用貧乏そうな)、若いフリーランスの人が頑張っていると、報酬は少なくてもいいので何か協力できないかな、と思ったり、そのように行動する時があります。やはりそれは自分の中にある倫理的な部分がそうさせていて、その背後には確かに「市民社会の中の自分」というものを意識しているように思います。また、働き手が定年退職後に、それでも自分のスキルで何かやれることをやりたい、という方が多いのは、やはり、そうした「市民社会」への接続欲求というのが関係あるのかなぁと想像しています。


うーん知らなかった! なんかうまくいかないなぁとは思っていたけれど。最近、10GBくらいのファイルを普通にオンラインで渡したりしますよね。それで僕もこの壁にぶち当りました。


牡蠣しゃぶを食べたい。


本当にこれですね。「裁量がない」時に、仕事がただの「作業」になってしまうのだと思います。一番きついのは「あなたが良いと思うものを自由で作ってね」と指示されるが、蓋を開けてみると「俺が良いと思っているものを君が想像してピタリと当ててくれい!」と言われている、という状態。つまり「自由だけど裁量がない」というシチュエーションですね。これが一番最悪。


「ハゲ=恥」という概念を世の中に浸透させたのは他ならぬアデランスだった、という部分が面白いですね。


僕はずっと一人(または妻と二人)でやっているので生産性を高める努力をしないと生き延びていけません。ですのでそれなりに努力するのですが、それがうまくハマっている「よい循環」のときと、まったくうまくいかない「悪い循環」の時があり、いまは生活環境を含め色々ぶっ壊れてしまったので、まさに「悪い循環」の最中にいます。そうすると廃墟になった町を立て直すが如く、細かいことからひとつひとつ再構築しなければなりません。もともと生産性が低いからそうなっているんだ、と言われたら何も言い返せないのですが。とにかくバラバラにぶっ壊れてしまったものは仕方がない。コツコツ修復していくだけです。