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2003.2.8 日常日記,

現象学ことはじめ

現象学ことはじめ―日常に目覚めること
最近じりじりと読み進めている本が、「現象学ことはじめ」という本である。

現象学とはフッサールという哲学者が提唱した分野であるが、なぜ人は知覚するのかとか、どのようにあるものと別のものとの区別をしているのかとか、そういう人間の思考の根本的なところを突き進めている学問である。語り口はやさしいのだけれども、非常に難しくて、読んでいるうちに「もうどうでもいいじゃん」と言いたくなってくる。しかしそれでも懲りずに読み進めているのは、やはりとりあげるテーマが興味深いからだろうか。

現象学の本を読んでいると、哲学と言う分野は、現実社会で起こる問題を考えるときのシミュレーション的な役割を果たしているのだなぁと思ったりする。提起された問題について、ああでもない、こうでもないと論考していって、ある答えを導き出す。その答えに、違う考えのひとが批判的に考察して新たなる結論を導く。これは現実社会の問題を対処する行程と同じだと思う。

また、大学でマスコミ論の先生が言っていたのだが、現代社会問題は、突き詰めていくと必ず哲学的・倫理的な問題にぶち当たるという。そういう意味でも、哲学と言う学問は、ぱっと見、実用性はないようだけれども、実はとっても身近で役に立つ学問なのではないかと思ったりした。

2002.12.3 日常日記,

風の又三郎

新編 風の又三郎 (新潮文庫)
宮沢賢治が、自分の中で盛り上がってきている。

ある日突然、ふと読みたくなって、本屋に駆け込んで2冊買った。もともとますむらひろしの、漫画(アニメ)版「銀河鉄道の夜」は大ファンだったので、そういうことも影響があるかもしれないが、ほんとうに何の前触れもなく僕は買った。

最初に読んだ「風の又三郎」は、少年のころ読んだ印象とまるで違った。あの頃、ただの転校生話として受け止めていたのだったが、(そういう意味で転勤族の僕はある種の共感を抱いてもいたわけだったが)今読むとその不思議な世界がとても刺激的だった。

風の又三郎をはじめ、ほかの話も含めて、宮沢賢治の話のなかの「継続性」「日常性」というところに魅力を感じた。つまりそれは、その話というのはあくまでも以前から続いていて、そしてこれからも続いて行く世界の、ある部分を切り取って描写したにすぎないのだということである。

風の又三郎でいえば、結局「風の又三郎」というのは一体なんだったのか、それは読者には知ることができない。それは三郎という転校生がそうであるとまわりが勝手に言っているだけで、実際に彼が風の又三郎であるということではない。風の又三郎とは、この話よりもずっと前の時間からおそらく語り継がれている伝説であり、それはこの話が終わったあとも語り継がれていくものである。


おそらく宮沢賢治は、地元の子供のためにこの話をつくっていて、おそらくその子供たちにはその伝説が何であるかというのは説明しなくてもよかった、という背景もあるかもしれない。しかし結果的に謎めいたこの伝説に対して、どのようにそれが子供たちの間に存在しているのか、子供たちにとって相対的にどういう位置にいるものなのか、その全てを読者は想像することができる。

その想像は時間を伴って映像化され、そこに自分だけの「風の又三郎」が始まる。そういう作品というのが、僕にはとても斬新に思えてしょうがないのである。