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2011.3.2 映画

彼女が消えた浜辺

アスガー・ファルハディ監督の「彼女が消えた浜辺」というイラン映画を観た。

内容は、海水浴に行った11人のメンバーうち、ひとりの女性が居なくなってしまうというものだけれども、かなり真に迫った心理サスペンスで、見終わった後も、妻と寝るまであれやこれやとこの映画の話題をするほど、濃密な内容の作品だった。

「彼女が消えた浜辺」というタイトルが、原題でもこの通りなのかは分からないけれども、少なくとも日本人はこのタイトルを見て作品を観るわけで、当然オープニングから、「誰が、どういうふうに消えるのかな?」と考えながら物語を読み進めるわけだけれども、監督はそのことを見越した上で、色んな分かりやすい「餌」をひょいひょいと撒いていく。この撒き方が本当に上手で、気づいたら僕も物語の中に入ってしまって、一緒になってその状況の中でものを考えてしまって、変な話だけれど、いっぱい汗をかいた。

この映画はストーリーを書くと台無しになってしまうので、書かないけれども、見終わってエンドロールを眺めている間、僕の脳内のビデオテープはオープニングまで巻き戻されて、いままで撒かれていた無数の「餌」とはなんだったのか、振り返らないわけにはいかなかった。

ひとつキーテーマとして、「どうして人は嘘をつくのか」という問題がある。この映画で描かれるイラン人の一般的な気質は、基本的には行き当たりばったりで嘘をついてしまう、というものであるらしい。こういう仮定は良くないかもしれないけれど、もしこれが日本人の物語だったら、この映画の展開は異なっていただろう。また、もしアメリカ人だったら、それはそれで違っていただろう。浜辺にある海の家という、限定された箱庭のような環境の中で、イラン人の気質から文化、貞操観念、どういう目的の嘘なら正義なのか、家族や名誉のための嘘は善か悪か、などなど、人間が普遍的に抱えるさまざまな問題まで提起されて、それらがとても丁寧に描写されている。本当におもしろい作品だった。

2011.2.27 映画

ペルシャ猫を誰も知らない

バフマン・コバディ監督の「ペルシャ猫を誰も知らない」というイラン映画。

政治の影響でいろいろな表現活動が制約される中で、こっそり音楽活動をする人たちを追った、ほとんど実話をベースにしたフィクション。とりわけ、イギリスに行ってインディ・ロックをやりたいという男女のカップルが主人公。抑制されて情報も少ない中で、田舎くさい音楽をやっているのかなと思いきや、アイスランドでシガー・ロスと会うのが夢だという彼らの音楽は単純にかっこよくて驚いた。劇中には他にもヘビメタ、ブルース、ヒップホップ、ワールドミュージックなど、たくさんのジャンルのミュージシャンが出てくるが、どれもこれもしっかりやっている。この映画は、イランにはこんなに才能のある人たちが(くだらない政治のせいで)たくさん埋もれているんだよ! というプロモーションの役割も兼ねている。音楽というか表現への情熱が伝わる、熱い映画だった。

これらのアーティストを売り出そうと奮闘するナデルという男の描かれかたが好きだ。ナデルは一見、儲け話に弱そうな感じの男で、外国の音楽や映画を密輸をしたり、そういう儲けの一貫みたいな感じで、あくまでも投資として地下ミュージシャンの支援をしているという風に見える。もちろん劇中では音楽への熱い想いをあらゆるところでぶちまけるのだけれども、圧倒的な早口でまくしたてるしゃべりかたで、見栄をはったり、どことなく信用できない感じである。ところが、入念に準備をしたのに演奏許可が降りなかったり、主人公をイギリスに出国させるための偽造パスポートを取得できなかったときの落ち込み方が、それはもう尋常ではないのだ。八方ふさがりになればなるほど、実はナデルという男の音楽への情熱は、嘘ではないという事が分かってくる。

ナデルは劇中でぽろりと、「本当は、俺の分のパスポートももらいたいよ」というようなことを口にする。劇中に出てくるミュージシャンたちは、実はほとんどの人が楽器も買えるし、外国に出るお金も用意できるし、車もあるし、といった人たちばかりだ。しかし、ナデルはそうではない。密輸をしたり、お酒を売ったり、そういうことで生活していて、自分の夢を自分でかなえるだけの力がない。彼はそのことを自覚しているから、才能のある人に自分の夢を託したいという部分があるのだ。失敗を取り戻すために、彼が一生懸命お金を貯めて買ったであろうバイクを、決死の表情で売りにいくシーンは、彼のそんな一面を表現していると思う。

才能のある人が、才能を発揮できない国でくすぶっている事へのいらだちということが、この映画のテーマのひとつなんだろうけれども、彼らは全体の中のごく一部であって、いらだちを自分で打開することができず、悶々としている人のほうが圧倒的に大多数で、ナデルはその象徴的な人物なのだ。彼の存在は、人間の音楽や表現の自由みたいなものへの欲求は揺るぎがないもので、抑えつけようのないものなんだ、ということを強く感じさせる。

この映画の冒頭では、監督が出てきて、この映画の仕組みを説明するシーンがある。新しい音楽をやる人に許可が下りないから、そのことをドキュメントで撮ろうと思う、などと、先に喋ってしまう。このやり方は、同じイラン人であるアッバス・キアロスタミ監督がしばしば用いる手法で、彼はキアロスタミ監督のもとで助監督をしていたというから、確実にその方法を踏襲しているんだと思うけれど、ストーリーが後に進むほど、作品全体にとって重要なシーンだと分かる。この映画も、音楽と同じように、無許可で、厳しい監視の目をくぐり抜けて制作されたものだと分かるからだ。つまり、この映画のモチーフは、この映画自身でもあるのだ。