keisukeoosato.net

2009.1.26 日常日記

すり替えてすり替えて。

最近正直、WEBにそれほど興味が無くなってしまった。とはいうものの、僕のiGoogleのページは面白いブログのRSSで網羅され、それが日々拡大していっているので、毎日起きてからこれらの更新記事を読むのにざっと2時間はかかる。僕が興味が無くなったのは、自分のホームページで自分の表現をすることについてである。

とはいうものの、継続は力なりというか、まあただそこにドメインが維持されているだけではあるのだが、ダメ工房というホームページは5年くらい、そこに存在しているわけで、未だにこのサイトを通じての色んな出会いというか発見みたいなものはあるし、そうそうこのサイトを消すという判断を下すには至っていない。ただ僕の考え方が変わったのに、表示されるものが何年か前に作ったもののままであるという違和感はある。この点をどうにかしないといけない。

———

僕はどうしてもボランティアというものに信頼が置けない。もちろん今、僕の知らないボランティア団体が、世界のどこかの困っている人たちを助けているのかもしれない。僕自身も高校時代はそうしたことに興味があり、インドシナ難民の子どもたちに日本語を教えるボランティアサークルで活動をしていた。でも、その活動を通じて、善意だけで物事を成立させるということに対する、不安定さみたいなものがとても気になってしまった。本当に困っている人がいて、本当に助けたり援助しなければならないのならば、善意以外の何事かで保証されるシステムにしなければ、活動を責任をもって継続させることなんてできないのではないかと。そして、継続できないボランティアなんていうのは、ひょっとしたらただの迷惑というか、エゴで終わってしまう可能性があるのではないかと思った。

数年前にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏によるグラミン銀行(貧しい人にお金を貸すシステム)についてはもう少し調べてみないといけないが、善意以外のもの(高い貸付金利)で安定性を保っているということが重要な点だろう。こうした活動には興味がある。あと地域通貨みたいなシステムも興味あるなあ。

———–

べつにボランティア活動と銘打たなくても、ボランティア的なものは、僕らの日常にはついて回る。ボランティア的なものは、人間の労働を考えたときにとても厄介な存在だと思う。たとえば映像を作っていて、ある人が格安でアニメ制作を引き受けてくれたとしよう。本当だったら10万円くらいかかるのに、2万円でやってくれることになったとする。これは割が合わないので、一種のボランティアである。僕の作品のために、善意で…なんていうと一気に美談っぽくなるが、これは決して美談なんかではない。差し引きゼロにならない活動なんて、いずれは破綻するのだ。その人が格安で何かをやったとしても、その見返りになるものを十分に提示することが大事であって、そこを「あの人はやさしいから」みたいな、人の善だとか正義だとかいうところに求めてはいけないような気がする。でも結局ボランティアって、そういうことなんじゃないか。人の労働を善とか正義という名目で0円にすることを言うんじゃないか。一体なにをもって0円にした分を埋め合わせるのか、という部分を考える必要がある。

———

最近は派遣切りみたいなことが話題になっているが、簡単に切られる派遣なんてイヤイヤ軽いボランティアをさせられているようなものなんじゃないかと考えたりする。支払われているお金以上のリスクがある場合がある。企業は派遣を都合のいいようにどんどん切ったら良いと思うけれど、そうだったら派遣労働者は自分の都合のいいように”もっと適当に”働いたっていいんじゃないかという気がする。いま何となく腹立たしいのは「賃金や待遇以上のマジメな労働をしてきた派遣の人たちが損してる」という感じであって、そこで労働というものを考えたときに、ひるがえって「ボランティア=善」みたいな発想そのものが、人間の労働の価値の一部を0円にしてしまって、めぐりめぐって労働者を困らせてるんじゃないのかなあという気がしてならないのだ。

最後に補足しないといけないと思うが、僕が問題にしているのはボランティアをしている人の問題ではなくて、そのボランティアに何か重大なことを依存してしまうというシステムについてである。どんなシステムでも不安定なものに依存しているのは危ういんじゃないかなと思う。