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2004.2.24 映画

ワラッテイイトモ、

「笑っていいとも!」をいまだかつて一度も見たことが無いという人は、割とまれじゃないだろうか。家にテレビは置かないと公言している皇太子の弟さんなんかは、ひょっとしたら見たことがないのかもしれない。なにせ、20年以上、土曜日を除いて毎日放映しているわけだから、確率的にもうっかり見てしまうだろう。今や、テレビ番組の代名詞と言ってしまっていいと思う。

司会はタモリだ。北朝鮮と韓国の駅内アナウンスの違いとかをやるタモリだ。だけれども、確か山下洋輔かなんかが言っていたけれど、「笑っていいとも!」のタモリは、「必殺技が使えなくなったウルトラマン」に等しい。とりあえず、昭和天皇の真似とかはご法度だし、できるのはせいぜい「生まれたての仔馬」とか「翼をたたむハゲワシ」とか、そういう安全なネタばかりだ。だから「笑っていいとも!」というのは、いかにも健全で、世代を問わず(と言いつつ割と若者向けだが)、かといってNHKのように時代に遅れてもいない、という優等生的番組なのである。

この「ワラッテイイトモ、」という作品は、一言で言えばそんな「笑っていいとも!」の映像をばらばらにして再構成した、映像コラージュ作品である。作者のK.K.という人は、どうやら家でずうっとテレビなんかを見て過ごしていたらしい。よく言う言い方だけれども、自分と世間をつなぐものがテレビにしか無い、という状態だ。

なぜ数ある番組の中で「笑っていいとも!」を選んだのだろう。毎日やってる、TVの代名詞とされる長寿番組だったら、別に「ニュースステーション」や「世界の車窓から」でも良かったし、それこそNHKの番組群なんて最高だろう。作者自身は、実は「笑っていいとも!」にこだわっていたわけではない、なんていう話を聞いたことがある。しかし、これは僕の主観だけれども、「笑っていいとも!」意外ではあまりおもしろくなかったと思う。なぜなら、「笑っていいとも!」はバラエティ番組だからだ。真面目なニュース番組なんていうものは、こういう場面でコラージュの対象になりがちで、取り扱い方も、その結果も、わりとやり尽くされた感がある気がするからだ。「笑っていいとも!」の場合、ズタズタに再構成されたらどうなるのか、少なくとも僕にはさっぱり想像が付かなかった。

しかも、他のローテンションな番組群に比べて、「笑っていいとも!」のテンションの高さは、引きこもりである作者と対照的に際立って、まるで彼をあざ笑っているかのようにも見える。「笑っていいとも!」はその内容からも「世間」の象徴というふうにも思えるけれど、それを映像コラージュという仕返しによってあざ笑い返すさまは、ますますむなしい。こういう演出は、例えばNHKのニュースなんかでは難しかっただろう。

さて作品は、最初にまず「笑っていいとも!」という番組をおもちゃにしてズタズタに再構成し、引きこもりの暇つぶし加減を見せ付けてくる。その暇つぶし加減というか、バカバカしさ加減が、僕には2ちゃんねるのA.Aとか、おもしろFLASHに通じるところがあるという気がする。確かにおもしろいんだけれども、それを作っている膨大な時間と労力と、背中を曲げている姿を想像すると、どこか背筋がぞうっとするような、あの感じだ。あれだけで、K.K.という制作者がどれくらい引きこもりなのか、どれくらいTV漬けな毎日だったのかというのがすぐ分かる。

ただこういうのを見ても、不思議と「どうだ、おもしろいだろう。お前ら笑え」という感じがしない。もちろん笑えるには笑えるのだが、むしろ、なにかそういうものを越えて、一抹の恐ろしさを感じる。何かとんでもないやりきりを感じるわけだ。この藁にもすがるような必死な感じはなんなのだろう、と思う。

ところで、映像コラージュというのは、実はそんなに物珍しいものではなく、しばしばやられるものだ。既に映像が持っている意味をばらばらにして、別の意味を持たせる、という映画で僕が知っているものに「アトミック・カフェ」という作品がある。これは核戦争のバカバカしさを米軍などの公の映像のみを構成して作った、とんでもないブラックユーモア作品である。これは、もともとあった公の映像が核について嘘ばかりついている映像だから、それを組み合わせることである種の「真実」が見えてくる、という仕掛けだ。

ところがこの「ワラッテイイトモ、」はその逆で、実際の映像を使って演出されるのは「虚構」と「妄想」の世界である。それを象徴的にあらわしているのが、TV画面にいるタモリとの会話である。例えば、タモリが「そっちの人は何やってんの」と聞く。彼は「映画とか撮っています」と答える。すると矢継ぎ早に、「お前、映画を作ってるみたいなのに、実際はね、過去の映像に違う索引作ってるだけ」と追い詰めていく。

これらは、K.K.の頭の中で、勝手に繰り広げられたやりとりである。もうひとりの自分と会話しているのか、彼にとってのTV像と会話しているのか、どちらにせよ自分を追い詰めていく言葉を労力をかけて作っているのは紛れも無く作者自身である。自分で自分のフェラチオをするような、妙な循環、自己完結を感じる。

それで彼はこのあと、実際にアルタ前に行って「笑っていいとも!」のオープニングに映ると言うパフォーマンスをする。その後、自分が映っているオープニング映像を繰り返し流した挙句、自分が映っているところにマーキングまでしてしまう。この自己アピール具合はなんだろう。そんなことをしたって、誰も気が付かない。ものすごく自己完結的な自己アピール。誰に対するアピールなのか、その辺がすごく漠然としている。いや、漠然とはしていない、そこにTVという、タモリという、世間という対象がある。しかしそれらがもうあいまいだ。しまいには、彼は「笑っていいとも!」の流れるTVをハンマーで叩き壊してしまう。

しかし寂しいことに、K.K.がどんなに目立つようにマーキングしても、煙が出るほどテレビを壊したとしても、「笑っていいとも!」という番組が消えたわけではないし、世間が同じように番組から離脱したいと思っているわけではない。彼が壊して離脱したのは、彼が勝手に作り上げた、「笑っていいとも!」と同じ形態をとった虚構の番組と妄想の世間だったのではないかという気がする。だからそのハンマーは、すべてを壊したようで、実は残像拳を使った孫悟空に向けた、天津飯のパンチと同じである。だから、ものすごくむなしいし、彼がどれだけ動いても何も進展も変化もない。彼が自分の存在について確認しようとすればするほど、立ち位置がぐらぐらしていることが分かってしまう。

このむなしさを感じるからこそ、この作品は必然的に生まれたのだなとも思う。世間と自分をつなぐものがTVだけ、という状況は、そのTVが妄想になってしまった時点で崩壊してしまった。TVは両者の真ん中で架け橋の役目をしているのではなくて、ただ自分の中にあるだけ、ということが分かってしまったからだ。つまり世間からのシャットアウトだ。そこで、水槽から放り出された金魚がばたばたしているように、彼もちょっとばたばたしてみたのではないか。せざるを得なかったというべきか。特に解決するわけでも成果をあげるわけでもない、わりとそういうことはどうだっていいのだ。やることに意味があった。このばたばたは、結構普遍的なばたばたである気が、僕はする。これはとても自覚的なばたばただ。自覚的に、意味が無いことが分かっているばたばただ。しかしそのばたばたしか、とりあえず自分について確認する方法が無かったのではないか、と思う。この作品の必死さは、そういう彼の中の必然性に起因している気がする。