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2009.6.10 展覧会

ヴィデオを待ちながら

東京国立近代美術館で開催されていた「ヴィデオを待ちながら」展。

60年代から現在にかけての実験映像を並べていく展示。映像というメディアが登場してから1世紀が経とうというのに、少なくとも僕の学生時代の美術の教科書には「実験映像」の項目は無かった。今回の展示は、さながら教科書のように、親切に、実験映像の歴史を解説してくれる、アカデミックなものだった。横浜トリエンナーレのような投げっぱなし感は無く、展示全体としての印象は良かった。

特に60〜70年代の実験映像が印象に残った。どの作家が、ということではなく、これらの年代の作品は全般的に、未だに輝く「勢い」が感じられた。ビデオという新しい「おもちゃ」を渡されて、これを使って一体なにができるのか、どんな表現が可能なのかを、嬉々として悩んだり、遊んだり、考え込んだりした、その熱気が、ひしひしと伝わってきた。ジョン・バルデッサリはカメラの前で「I am making art」と言い続けた。ヴィト・アコンチは、延々とカメラの中央を指差し続けた。アンディ・ウォーホールは過去と現在の女優の姿を4つ並べた。ブルース・ナウマンは、カメラフレームを意識したポーズをとることで、3次元の空間で平面の構成をした。どれも単純だが、映像の可能性をひとつひとつ、確かめているようで面白かった。映像というメディアの特性なのか、だいたいどの作品もみんな、必死で見ている人にコミュニケーションを取ろうとしてくる。その必死さが面白かった。

いま手元に、芸術家がこれほど熱狂できるおもちゃがあるんだろうか、と考えた。パッと思いついたのはWEBだが、WEBと美術がうまくいった作品って、いろいろやっている人は見るけれど、そんなに印象に残っていない。ただプログラム組んでメディアアートです!みたいなのじゃなくて、きちんとブラウザを通して見るような”WEB作品”、ぱっと思いつかないなあ。おもちゃにするには大きすぎるのだろうか? 誰でも簡単に参加できて、誰でもタダで見られる、という条件が、美術との相性を悪くしているのかな? プログラマーが、美術史を鑑みて、実用性のないシステムを組むようになったら、WEBなんてアート作品ばかりになるような気もするけれど。でもそもそも、新しいメディアを使って、「芸術とは何か?」なんていうことを検証するという行為自体が、いかにも古くさい、なんていう空気があるのかもしれないなあ。

とにかく羨ましかった。新しいおもちゃに、これだけのめり込んで、これだけ遊べているということが。そして、それを社会が包容している時代があったという現実に対しても。いくつかの作品は、テレビで放映されたのだという。日本人が作った「政治家が記者会見している映像が映ったテレビを海にぶん投げる」なんていう映像が、NHKで放送されたという表記を見たときに、そんな時代があったんだ、と衝撃を受けた。今だって、ビル・ヴィオラの作品を深夜に放映したっていいじゃないか、スカパーで実験映像チャンネルがあってもいいじゃないか、と思った。

映像は、ほかの芸術メディアよりも(絵画とか、彫刻とかよりも)、より社会性を帯びたメディアなのかもしれないと思った。映画にしてもテレビにしても、不特定多数の人に、同時間に同体験をさせるという要素があるからだと思う。泉太郎氏のようないかにも個人的なことをやっている作家の作品でも、そういう面が少なからずあったように思う。だからこそ、「実験映像のような意味が分からないものを包容していた社会環境」についても、考えざるを得なかった。もちろん、社会環境と言っても、全員が包容していたというわけでは無いだろうけれども。

なんか何となく、いまテレビでも映画でも、商業というものが関わってくると、全部意味が分かるように作られているし、全部飽きないように工夫がされている。みんな親切丁寧で、それはそれで良いんだけれども、それがまるで義務のようで、とても実験映像なんか流せる余地は無さそうに思ってしまう。自分もモノを作るとき、みんなが分かるように、なんて考えてしまうけれど、それが作り手の作りたいものを妨げるレベルに行ってしまっては、面白味も無くなるんだろうな。そして社会環境も、その中で暮らす僕自身も、面白味が無くなったという事実自体に気づかないのかもしれないな。

あんまり直接作品と関係ないことかもしれないけれど、そんなことを考えていた。