風の又三郎

宮沢賢治が、自分の中で盛り上がってきている。
ある日突然、ふと読みたくなって、本屋に駆け込んで2冊買った。もともとますむらひろしの、漫画(アニメ)版「銀河鉄道の夜」は大ファンだったので、そういうことも影響があるかもしれないが、ほんとうに何の前触れもなく僕は買った。
最初に読んだ「風の又三郎」は、少年のころ読んだ印象とまるで違った。あの頃、ただの転校生話として受け止めていたのだったが、(そういう意味で転勤族の僕はある種の共感を抱いてもいたわけだったが)今読むとその不思議な世界がとても刺激的だった。
風の又三郎をはじめ、ほかの話も含めて、宮沢賢治の話のなかの「継続性」「日常性」というところに魅力を感じた。つまりそれは、その話というのはあくまでも以前から続いていて、そしてこれからも続いて行く世界の、ある部分を切り取って描写したにすぎないのだということである。
風の又三郎でいえば、結局「風の又三郎」というのは一体なんだったのか、それは読者には知ることができない。それは三郎という転校生がそうであるとまわりが勝手に言っているだけで、実際に彼が風の又三郎であるということではない。風の又三郎とは、この話よりもずっと前の時間からおそらく語り継がれている伝説であり、それはこの話が終わったあとも語り継がれていくものである。
おそらく宮沢賢治は、地元の子供のためにこの話をつくっていて、おそらくその子供たちにはその伝説が何であるかというのは説明しなくてもよかった、という背景もあるかもしれない。しかし結果的に謎めいたこの伝説に対して、どのようにそれが子供たちの間に存在しているのか、子供たちにとって相対的にどういう位置にいるものなのか、その全てを読者は想像することができる。
その想像は時間を伴って映像化され、そこに自分だけの「風の又三郎」が始まる。そういう作品というのが、僕にはとても斬新に思えてしょうがないのである。