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2010.7.5 日常日記

足が長い

散歩していると、世田谷には豪華な一軒家が多いなぁと思う。しかも、それなりに風格がある、庭師が剪定とかしている感じの、「それ、カフェにしたら売れるんじゃないの?」みたいな感じの家が目につく。ああいう家を住居兼作業場にしてみたいものだ。自分にもいつか買うチャンスはあるのだろうかと調べてみたら、「貧乏な個人事業主は空気を読んでブラウザを閉じろ」というようなサイトが多かったので、絶望した。

僕には夢があって、それは、ああいう素敵な一軒家の家主のおじいさんが、すごく困っているときに、たまたま居合わせた僕がうっかり助けたりして、その後、そのおじいさんは身寄りもなく孤独な生活をしていると知った僕は、週に何日か、通ってみたりして、そうこうしているうちに、おじいさんの生命の最期のほうで、「大里くん、君には才能がある。この家を、やろう」と言われる事である。豪華な家を見るたびに、そういう想像をする。僕の妄想世界では、僕に家をあげたいというおじいさんが、順番待ちをしている。

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まったく正反対の話になるんだけれども、先日、今日は休もうと決めて、吉祥寺に行った。目的は、ヨドバシカメラで、僕の新しい活動のために、新しく機材を買おうという下見だったのだが、大きな買い物というものは、それが本当に必要かどうかということではなくて、ある種の決意表明みたいなものなのだな、と思った。たとえば、グラフィックの仕事をしようと、パソコンとフォント、アプリケーションを合計数十万円も出して買うとしても、ひょっとしたらそれは、人から譲ってもらったり、違法行為をして、もっともっと安く手に入るかもしれないけれど、でもやっぱり、そのためにせっせとお金を貯めて、他の色んなものを削って、自分のために買う、という「重み」は、形にはならないけれども、大きいような気がする。

とはいうものの、貧乏で、貧乏というか心配性なので、先行きの事とか考えてしまう。去年、相当きびしい状況に陥ったので、そういうトラウマが、少なからずある。そうすると、先行きの蓄えのいくらかを削らないと、大きな買い物はできないわけで、未来を買うために未来を削るのかどうか、実に悩ましい。やっぱり、おじいさんが家をくれるのが良い。一杯飲もうと思って、ジャズバーと書かれたバーに行った。聞いた事のないスコッチを飲んだ。

2010.7.3 日常日記

食べたことのない

昼寝をしたら、長い昼寝になってしまった。大宮八幡宮のそばのマンションに住んでいて、そこはパラグアイだった。パラグアイでは未だに、ガムテープをぐるぐるに巻いたものをボールにして、サッカーに興じる少年がいた。目覚めて思ったのだが、たぶん中田英と同じ夢を見ていたんだと思う。

カレーを作ろうと思い立って、何ヶ月か前に、下高井戸の自然食品ショップでジャケ買いした、高度経済成長期に発売された雰囲気の漂うカレールーを入れて、ご機嫌にかきまぜた後、最後の試食をしたら、一切味がなくて驚いた。味のついていない、ただのカレー粉だった。あの黄色い缶「インデラ・カレー」以来の事態だった。動揺して塩をかけたら、思った以上に大量に投入されてしまった。「塩スープ」としか形容しがたい味になってしまい、あわてて水を足したり、コンソメを入れたり、ソースをかけたり、頭をやわらかくして黒糖を入れたり、チョコレートを入れたり、蒲焼きのタレを入れたり、最後のほうは目についた液体は入れてみようという考え方になってしまい、にがりを入れたり、シークァーサーを入れたりしていると、まったく今まで食べた事のない味のカレーができあがってしまった。しかも水を足した手前、当初の想定の2倍の量ができあがってしまった。

難しい事に、決してまずくはないのだ。そして、カレーとしてのアイデンティティみたいなものも、あるのだ。でも、すごくおいしいかと言われると即答はしにくい感じで、目をつぶって食べて、「これはカレーか?」と尋問されれば、そうかもしれないけど、そうでないかもしれない、でも強いて言えばカレーかもしれない、というような味なのである。もう三十年弱生きてきて、久々に、これは食べた事ないなあ、という味だった。そう考えると、もう少し評価されてしかるべきものだったのかもしれない。なぜか、簡単に食べ尽くしてしまった。