21世紀の幸福
現代実存主義文学の先駆者、フランツ・カフカの「変身」という作品において、主人公のグレーゴル・ザムザはある朝自分が巨大な毒虫に変わっていることに気づく。自分の手足等を見たり、あるいは人間的な動作に支障を来すということを知ったうえで、彼は自らの変身を認識することができたわけだ。しかし彼は自分がどのような毒虫になったのかを正確に確認できたわけではない。なんとなく、毒虫のようなものになった、程度の認識であって、それが他人から見ていかなる毒虫であったかを彼はおそらく知らない。まわりの家族や来訪者の驚く姿を見て自分の姿を想像していたのだろう。
そう考えると、誰しもが、自分のおかれている状況を正確に認識することができないのかもしれない。だから、録音された自分の声を聞いたとき、あまりのイメージの違いに愕然とするし、似ても無いのに「俺はキムタクに似ている」と言い張ったりする。それはもちろん、自分の幸福観についても当てはまることであって、自分が幸福という状況下にいるのならば、それがいかなるものなのかを、なかなか認識することはできないだろう。
昨年、アメリカにおける同時多発テロ事件が起きた。アフガニスタンはアメリカによって報復空爆攻撃を受け、テロとは無関係の民間人が多数犠牲になった。これは不幸な状態である。アフガニスタンは復興に向けての再スタートを切り、メディアは彼らの希望や幸福への願いをこぞって取材しに行った。そこでは子供たちこんな声が聞かれる。「学校に行って勉強したい」「学者になって家族を助けたい」云々…。
彼らの幸福像は明確である。彼らは不幸状態にいて、彼ら自身は自分が不幸だということを認識しているだろう。しかし、それを他と比較してどれほど不幸か、どのような不幸かということの認識は先進国がしていて、彼らがしているのではない。その代わり、彼らは自分にとっての幸福が何であるかを知っている。僕はメディアを通してそのような印象を持った。
僕は「幸福とは?」の問いを考えてみるが、なかなか答えが出てこない。どれもこれも、それは幸福といわれるものの一部なのかもしれないが、幸福を表わしてはいない、そう考えると結局何が何だか分からない。僕はやはり、自分がいま現在幸福状態にいるから、毒虫になったグレーゴル・ザムザのように自分を(幸福を)はっきりと認識できないのではないか、と思うようになった。幸福を明確に定義できる状態、それはアフガンの子供のように、不幸な状態なのではないかと考えるのである。幸福が何なのか分からないことは、この上ない幸せなのだ。
21世紀はどうなるのだろうか。自然破壊が進み、地球は生命の住めなくなる星になるのだろうか。国際的な秩序が崩壊し、第三次世界大戦でも勃発するのだろうか。なんにせよ、21世紀の幸福が失われるのは、ものごとが発生することそのものというよりも、私たちが「21世紀の幸福」の答えを明確に出してしまうことなんだろう。幸福とは何かなんて、知らないほうが幸福なのだ。幸福の答えを吐き出しそうな芽はすべて摘み取っていかないといけない。誰もが、幸福とは…と簡単に言えなくなるようにすることが、実はいちばん理想的なのかもしれない。