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2011.4.15 映画

100,000年後の安全

めずらしく早朝に起きた。土日に仕事をする必要があるので、タイミングを考えて今日は休もうと思った。ちょうど10時から、渋谷アップリンクでマイケル・マドセン監督の「100,000年後の安全」という作品をやっているということで、観に行くことにした。

この映画は放射性廃棄物の最終処理場「オンカロ」をめぐるフィンランドのドキュメンタリー。狭い会場だが満員で、このトピックに興味のある人が多いことがうかがえた。たぶん、ストーリーを知らずに観に来ていた人のほとんど(僕も含めて)が無意識に想像していた内容は、処理場をめぐる住民とのいざこざ、政治家のきたない利権関係、それと動物に奇形が出たり、小児がんが発生したりする風景とか、そういう感じだったのではないかと思う。

ところが、この映画の論点は核処理場の賛否ではない。原子力産業に賛成にせよ反対にせよ、もう目の前に核廃棄物はあるのだから、立場など関係なく、これはどうにか処理しなければならない。そして、どうやって廃棄するのが良いのかについても、あらゆる角度で検討がなされていて、けっきょく人里離れた山奥の、地中深くに埋めるしかないと分かっている。つまり、処理場を作る、作らないということは論点にはならない段階にきているのが、フィンランドの核処理場の現状であるらしい。

そういう前提で、この映画のテーマに据えられているのは次のようなことだ。

「核処理場は、安全のためには100,000年はその役割を維持しなくてはならない。しかし、そのころには、施設を設計した人はみんな死んでしまっているし、人類自体が滅びているかもしれない。そうなったら、100,000年後にいるかもしれない、人間ではない知的生命体に、この施設の危険性をどうやって伝えれば良いだろうか?」

この論点にはとても驚かされた。こんな、地球外生命体に愛のメッセージを送るみたいなことを、フィンランド政府の原子力安全委員会の人たちや科学者が、真剣に考えているのだ。まさにSFという感じだけれど、現実であるところが、すごい。すごいというか、恐ろしい。

発想の前提にあるのは、未来の知的生命体に対する強烈な不信感だ。彼らはきっと強欲で、好奇心のかたまりで、「近づくな!」なんていう看板を掲げていたら、宝があると思って、むしろ処理場のある地面を掘ってしまうかもしれない。要するに人間みたいなどうしようもない奴が、未来の地球に住んでいるかもしれないと、関係者は想定しているのだ。

その「どうしようもない奴」にどういうメッセージを送ればいいか、あれこれ専門家がアイデアを出している。100,000年後でも解読できそうな、ガイコツのマークなどのイラストを書いた石碑を立てる。6カ国語で書いた施設の説明を石版に掘る。普遍的にネガティブな感情を感じさせるムンクの「叫び」を置こうという人もいる。いやいや、そもそも何も伝えなければ発見もされないのだ、などなど…。

考えてみると、それは現存する古代遺跡そのものなのだ。ピラミッドやモアイ像、ナスカの地上絵など、謎に満ちた古代遺跡が、今まさにフィンランドで誕生しようという風景である。夢のある文明社会を想起させる古代遺跡だけれども、それがまさか核の最終処理場だったなんて、誰が想像できるだろう? その遺跡に書かれたメッセージは、今の人類に伝わっているのだろうか?

要するにこの映画は、もうすぐ終わるかもしれない人類の文明の「遺言」を考える映画なのだ。すでに人類は、自分で手に負えないものを作ってしまった。この後始末について考えることは、未来の生命体に対する贖罪的な意味を持つ。日本にもたくさんの原子力発電所があり、必ず核廃棄物は出る。この問題を自分に置き換えてみて、自分がこの処理場に立てる石碑をつくる立場だったら、たとえばどんなデザインの、どんなメッセージを折り込むだろう? などといろいろ考えさせられた。

ちょっと作り込みすぎかなぁと思う部分もあったけれど、壮大なテーマを誰にでも考えられるようにうまく落とし込んだ、良くできたドキュメンタリーだと感じた。この作品自体も、未来の生命体に向けたメッセージになっているという設定も良かった。