金日成のパレード
山下達郎の「パレード」という歌で、「ごらん!!パレードが行くよ」というフレーズが繰り返し使用される。確かにパレードが道を通っていたら、誰かに知らせたくなるし、できることなら見ておきたいと思うだろう。そういう特殊な空気を醸し出している。パレードの範疇に入るのか分からないが、神輿というのが一種のパレードだとすれば、「ごらん!!神輿が行くよ」という歌詞を考えると分かりやすいと思う。神輿が道を通ると、警察や交通整理員が登場するほど、たくさんの人だかりができる。きっとそこには、人を押しのけてまで先頭で見たいという人が出てくるだろう。パレードは、そうやって人を惹きつけるものがある。ひょっとしたら、東京ディズニーランドがほかのテーマパークと決定的に違うのは、パレードの有る無しということが関係しているのかもしれない。
ところで、なぜパレードはそれほどまで人の気持ちを高揚させるのだろう?
まず僕が思うのは、パレードには、今いる環境を、ぱっと魔法のように別世界へと変えてくれるような要素が確かに存在するということだ。もしそこがただの見慣れた通学路だったとしても、パレードが通っていたら、その道を華やかで希望に満ちた道に変化させるだろう。僕はそこにいればそれに惹かれるし、その存在をお祝いムードで肯定したいと思う。
あと、同じように集まった人間群に対して興奮するということがあるかもしれない。例えば大晦日の夜に、普段は人ひとり居ないような神社に、溢れんばかりの人だかりができていることがある。そのとき、皆で一緒に同じ思いで年を越しているような、何ともいえない一体感にすごくアドレナリンが放出されることがある。ちょっと前に川崎大師で年を越したとき、何千という単位の人間が一斉にカウントダウンを始め、年越した瞬間誰彼かまわず祝いあった。あのとき、なんだかこういうことで世界は平和になるみたいな、妙な浮かれ気分になった。
ほかには、それが一過性のものであるという点も見逃せないと思う。パレードはつねに動いているから、そのときその瞬間に現場に居合わせなければいけない。しかもそれがUFOとか虹とかと違うのは、あらかじめそれが予告されているということである。予告された一過性のものというのは厄介だ。人は集まるし、集まったら常にそれを見ていなければならない。パレードは、そもそも見せるために作られているので、ますます厄介なのである。
さて、ここでもし、「ごらん!!金日成のパレードが行くよ」という歌詞があったらどうだろう。うまく想像がつかなければ、もう少し、山下達郎の「パレード」の歌詞をちゃんと掲載して考えてみようか。最近はつじあやのが歌っているのでメロディも浮かびやすいだろう。
まどろむ様なピンクの明りは
浮かれ騒ぎにとってもお似合い
通りにあふれる虹のかけらを
あなたに一つ僕にも一つ
ごらん!! 金日成のパレードが行くよ
ごらん!! 金日成のパレードが行くよ
金日成のパレードが
金日成のパレードが
うむ、なんだか拉致事件も、大韓航空機爆破も、すべて吹き飛ばしてしまうような不思議なテンションである。こんなノリだったら、金日成のパレードを思わず肯定してしまいそうだ。あらかじめ並んでいた人を押しのけてまで先頭で見たい親子がいそうだ。
ただ、いまは既成の曲の「パレード」という言葉に「金日成の」という連体詞をつけただけだから、違和感を感じてしまう人はいるかもしれない。しかし、もし生まれて物心つく前から、延延と「ごらん!!金日成のパレードに行くよ」と歌い続けてきたとしたらどうだろう?もし「パレード」と聞いて最初に思い浮かぶパレードがディズニーランドや神輿ではなく、「金日成の」パレードだったとしたら・・・?
この「金日成のパレード」という作品に全編を通して込められていることは、しかしそういう世界である。作品によれば、北朝鮮では4歳から児童に合宿をさせ、そこで何枚かの写真を見て「こちらは偉大なる首領様・金日成主席のおじである●●様でございます」と発表させたりしているらしい。次のカットでは大人になった青年達が「マンセー!」と叫びながら大行進している。まさに小中高大一貫教育だ。ポーランドの監督は、こういう状況を、ただただ客観的に、許されて撮影された素材と音声だけを利用して構成している。
いったい、このポーランドの監督は親北朝鮮なのか?そうではないのか?他のインターネットの評論でも、そのへんの解釈ではいささか意見が分かれている。しかし僕は思う。この状況を、客観的に構成すること自体が、すでに批判的であるのだと。ひょっとしたら、客観的にやらざるを得ない事情があったのかもしれない。彼の、なんの主張もせずただただ与えられた映像を並べていくという構成は、観客を冷めた視線にさせるのに大きな効果をもたらしていると思う。客観的に見れば見るほど、やっていることが馬鹿馬鹿しくも見えるし、それを通り越してそら恐ろしくも見える。
やり方としては、亀井文夫という監督のやりかたに近いかもしれない。彼は戦時中、日本の軍を褒め称える映画ばかり撮っていたが、実は彼はとても批判的だったらしい。太平洋戦争で日本が勝てるわけがないと思ったというのだ。しかし、そんなことを映画にしたら絞め殺されてしまう。だから、彼は巧みに作った。映画の道筋自体は、軍を賞賛し、戦争の意義を伝えるものになっているが、「戦ふ兵隊」という作品では、日本軍が堂々と突進していくシーンのあとに、広大な中国の大地に蟻つぶのような大きさで進んでいく日本軍をつなげていて何とも弱弱しい。中国のある都市を制圧した後のラッパのマヌケな音色が、なんだかとてもむなしく聞こえる。全編を通して、やけに冷めた目線で撮っているのである。
そんなことを思い返すと、戦前の日本というのはいまの北朝鮮と変わらない、と耳にタコができるぐらい聞いている話が、ずいぶんリアルに感じられる。ただ、日本にはそれを批判する人が中から現れたが、この映画はポーランドの映画である。外から撮っても、このようにストイックな構成にせざるを得ない状況をひしひしと作品から感じることが出来る。でも、きっといるんじゃないか?「なんか違うぞ」って思ってる人が。だから、チュチェ思想のおおもとを作った大物幹部が韓国に亡命したり、貧しい人たちも脱北したりしているんだろう。
でも北朝鮮はメディア規制には本当に神経質なんだろう。メディアの性質をよく知り、だからこそそれが政権を転覆させる力を持ちうることも十分承知で、あつかましいほどの制限をかけてくるのだろう。この映画は、その制限をそのまま受け入れることで、「制限」自体をも浮き彫りにしている。繰り返される人民の賞賛の声、必ず接頭詞に「偉大なる首領様」とつき、気持ち悪いほどのスケールでマスゲームが展開される。それ以外には何も無い。ともすれば「観光ビデオ」である。それ以外では困るのである。しかし、それ以外では困ることも、伝わってくる。そこが、おもしろい。
国民は大パレードをしている。みんな顔がマジだ。 「ごらん!!金日成のパレードが行くよ」という言葉が、自分で言っておいてなんだが、そら恐ろしく聞こえてくる。パレードというものは、その性質からも、北朝鮮が対外に見せることを許す唯一の行事なのである。むしろ、パレードしか見せないことで、「パレードの国」という、いわばディズニーランド的な天国世界をアピールしているのだろう。パレードが人を惹き付けるように、北朝鮮国内の人たちは金日成に惹き付けられている。しかし、この作品のように冷めた目線で見ている限り、パレードという衣の中にあるモノがうっすらと垣間見えてくる。








![金日成のパレード [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/313PFJ9HZYL._SL160_.jpg)