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	<title>大里圭介のポートフォリオサイト &#187; 映画</title>
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	<description>大里圭介のポートフォリオサイトです。</description>
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		<title>よく考えると毎年９月はこんな感じ</title>
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		<pubDate>Mon, 12 Sep 2011 08:13:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>keisuke oosato</dc:creator>
				<category><![CDATA[日常日記]]></category>
		<category><![CDATA[映画]]></category>

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		<description><![CDATA[Parallels Desktopのバージョンアップに、なぜか膨大な時間が割かれているので、その間に日記でも。 先月見た映画。 バンクシー監督 「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」 世界で最も有名なストリートアーテ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>Parallels Desktopのバージョンアップに、なぜか膨大な時間が割かれているので、その間に日記でも。</p>
<p>先月見た映画。</p>
<p>バンクシー監督<br />
「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」</p>
<p>世界で最も有名なストリートアーティストであるバンクシーの作品。しかし映画は彼の話ではなくて、ストリートアートが大好きなティエリーが、ただ大好きなだけだったのが、アーティストとして本当に個展を開催するまでのドキュメンタリー。映像自体が面白いというものではないけれど、映画のテーマは「作品が本物なのか見極める目を持ちなさい」というもの。つまりこの映画に描かれている対象が本物か偽物かということが問われている。その構造自体をメタ的に楽しむという作品だろう。</p>
<p>実際に、未だに、「ティエリーはバンクシーなのでは？」という疑問が消えない。（調べたら、ティエリーはきちんと実際に活躍しているようだけれども。。。）正攻法に映画を作るのではなくて、あくまでもストリートアーティストとしてのスタンスで、自分の得意な手法を映画にそのまま持ち込んだバンクシー監督はやはりただ者ではないというか、頭いいなぁと思った。</p>
<p>アピチャッポン・ウィーラセタクン監督<br />
「ブンミおじさんの森」</p>
<p>病気が悪く、森の中で療養するブンミおじさんに、死期を悟った精霊たちがやってくるという話。死期を悟った人が、世界を見る目がちょっと変わりそうな感じって、分かる気がする。そういう言葉にできない精神的な世界を、素晴らしい表現力で映像に落とし込んでいく。ストーリー自体はよく分からないところも多いのだけれども、個人的にはすべてが「意味は分からないけれどしっくりきた」。それがすごく不思議で、やはりタイの映画なので、同じ東洋的な自然崇拝的な宗教観があるからなのかな？　とか思った。もしそうだとしたら、西洋人が見たらどういう感想を持つだろうか？　とにかくこの作品は、小説でも彫刻でも写真でもなく、映像でないと表現できない領域を扱っているなと思った。</p>
<p>ラストシーン界隈の意味だけれども、僕としては、ひとつの肉体には、先祖からのあらゆる精霊が同居している、ということを表現したかったのではないかと思った。ひとつの個体が、ひとつの精神で成り立っているとは限らない。実際に先祖からのつながりの中で、自分は生きているわけだし。そういう哲学的なことも考えさせられた。</p>
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		<title>100,000年後の安全</title>
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		<pubDate>Fri, 15 Apr 2011 08:32:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>keisuke oosato</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画]]></category>

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		<description><![CDATA[めずらしく早朝に起きた。土日に仕事をする必要があるので、タイミングを考えて今日は休もうと思った。ちょうど10時から、渋谷アップリンクでマイケル・マドセン監督の「100,000年後の安全」という作品をやっているということで [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>めずらしく早朝に起きた。土日に仕事をする必要があるので、タイミングを考えて今日は休もうと思った。ちょうど10時から、渋谷アップリンクでマイケル・マドセン監督の「100,000年後の安全」という作品をやっているということで、観に行くことにした。</p>
<p>この映画は放射性廃棄物の最終処理場「オンカロ」をめぐるフィンランドのドキュメンタリー。狭い会場だが満員で、このトピックに興味のある人が多いことがうかがえた。たぶん、ストーリーを知らずに観に来ていた人のほとんど（僕も含めて）が無意識に想像していた内容は、処理場をめぐる住民とのいざこざ、政治家のきたない利権関係、それと動物に奇形が出たり、小児がんが発生したりする風景とか、そういう感じだったのではないかと思う。</p>
<p>ところが、この映画の論点は核処理場の賛否ではない。原子力産業に賛成にせよ反対にせよ、もう目の前に核廃棄物はあるのだから、立場など関係なく、これはどうにか処理しなければならない。そして、どうやって廃棄するのが良いのかについても、あらゆる角度で検討がなされていて、けっきょく人里離れた山奥の、地中深くに埋めるしかないと分かっている。つまり、処理場を作る、作らないということは論点にはならない段階にきているのが、フィンランドの核処理場の現状であるらしい。</p>
<p>そういう前提で、この映画のテーマに据えられているのは次のようなことだ。</p>
<p>「核処理場は、安全のためには100,000年はその役割を維持しなくてはならない。しかし、そのころには、施設を設計した人はみんな死んでしまっているし、人類自体が滅びているかもしれない。そうなったら、100,000年後にいるかもしれない、人間ではない知的生命体に、この施設の危険性をどうやって伝えれば良いだろうか？」</p>
<p>この論点にはとても驚かされた。こんな、地球外生命体に愛のメッセージを送るみたいなことを、フィンランド政府の原子力安全委員会の人たちや科学者が、真剣に考えているのだ。まさにSFという感じだけれど、現実であるところが、すごい。すごいというか、恐ろしい。</p>
<p>発想の前提にあるのは、未来の知的生命体に対する強烈な不信感だ。彼らはきっと強欲で、好奇心のかたまりで、「近づくな！」なんていう看板を掲げていたら、宝があると思って、むしろ処理場のある地面を掘ってしまうかもしれない。要するに人間みたいなどうしようもない奴が、未来の地球に住んでいるかもしれないと、関係者は想定しているのだ。</p>
<p>その「どうしようもない奴」にどういうメッセージを送ればいいか、あれこれ専門家がアイデアを出している。100,000年後でも解読できそうな、ガイコツのマークなどのイラストを書いた石碑を立てる。6カ国語で書いた施設の説明を石版に掘る。普遍的にネガティブな感情を感じさせるムンクの「叫び」を置こうという人もいる。いやいや、そもそも何も伝えなければ発見もされないのだ、などなど…。</p>
<p>考えてみると、それは現存する古代遺跡そのものなのだ。ピラミッドやモアイ像、ナスカの地上絵など、謎に満ちた古代遺跡が、今まさにフィンランドで誕生しようという風景である。夢のある文明社会を想起させる古代遺跡だけれども、それがまさか核の最終処理場だったなんて、誰が想像できるだろう？　その遺跡に書かれたメッセージは、今の人類に伝わっているのだろうか？</p>
<p>要するにこの映画は、もうすぐ終わるかもしれない人類の文明の「遺言」を考える映画なのだ。すでに人類は、自分で手に負えないものを作ってしまった。この後始末について考えることは、未来の生命体に対する贖罪的な意味を持つ。日本にもたくさんの原子力発電所があり、必ず核廃棄物は出る。この問題を自分に置き換えてみて、自分がこの処理場に立てる石碑をつくる立場だったら、たとえばどんなデザインの、どんなメッセージを折り込むだろう？　などといろいろ考えさせられた。</p>
<p>ちょっと作り込みすぎでしゃくに触った部分もあったけれど、壮大なテーマを誰にでも考えられるようにうまく落とし込んだ、良くできたドキュメンタリーだと感じた。この作品自体も、未来の生命体に向けたメッセージになっているという設定も良かった。</p>
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		<title>トスカーナの贋作</title>
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		<pubDate>Wed, 13 Apr 2011 13:43:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>keisuke oosato</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画]]></category>

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		<description><![CDATA[四月あたまにアッバス・キアロスタミ監督の「トスカーナの贋作」を見てから、この映画のことが頭にこびりついて離れない。キアロスタミ監督は自分の中で最も好きな映画監督であるということを差し引いたとしても（実質、差し引けないけれ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>四月あたまにアッバス・キアロスタミ監督の「トスカーナの贋作」を見てから、この映画のことが頭にこびりついて離れない。キアロスタミ監督は自分の中で最も好きな映画監督であるということを差し引いたとしても（実質、差し引けないけれど）、この作品はかなりおもしろかった。正確に言うと、おもしろかったというより、戸惑わされ、考えさせられ、日常生活の目線を変えさせられたという感じだ。</p>
<p>ストーリーを説明するのは難しい。あるときに出会った男女が一日デートをするのだけれども、この男女の関係性が、映画のはじまりと、終わりではだいぶ変わっている（または、変わっていないかもしれない）。最初は作家（男）と書評家？（女）という関係なんだけれども、途中から夫婦になって、最後はもう何だかよく分からない熟年の男性と女性の関係になっている。それに対する説明は一切なく映画は終わる。ふつうに考えれば、この男女はどこかで&#8221;演技&#8221;をしているということになるのだが、一体なにが本当で、どこで&#8221;演技&#8221;がなされていたのかは、観客が推測せざるを得ない。</p>
<p>しかしこの作品が支離滅裂に感じられないのは、人間誰しも、日常生活の中で&#8221;演技&#8221;をすることはあるからだ。エラい人の前では、自分を少しでもよく見せようとするし、親の前では、子どもらしい振る舞いをすることがある。今回はそれが男女関係において描かれているわけだけれども、恋愛こそ&#8221;演技&#8221;がもっとも行なわれるシチュエーションと言えるかもしれない。そして、男女がはじめて出会った時期と、熟年夫婦とでは、&#8221;演技&#8221;の性質も変化していくだろう。しかも、映画の中では、そういう&#8221;演技&#8221;がいかにも起こりそうな風景ばかりが描かれているし、何しろこの男女が出会うきっかけになった本が「贋作」というタイトルであることも示唆に富む。色んな見方ができる作品で、この映画を何十年かあとに見たら、まったく違う感想を持つかもしれないし、どこで&#8221;演技&#8221;がなされていたかの推察も変わってくるだろう。色んな人の感想を聞いてみたい。</p>
<p>それにしてもキアロスタミ監督というのは、真実と虚構の境界線をずっと追い求めている監督だけれども、今回のような描き方もあるのかと驚いた。彼の「オリーブの林をぬけて」という映画では、その前の作品「そして人生はつづく」の１シーンを演じる男女にスポットを当てて、そのシーンの撮影風景を何度も何度も繰り返すことで、徐々に移り変わる心情の変化を描いていたけれど、今回はそれをもっと掘り下げて、ストイックに表現したという感じがする。「『映画という舞台装置を作って、演技をさせる』ことを俯瞰する」というスタイルはずっと続けられてきているけれど、このことに対する彼の執着心は、正直変態的だなとすら思った。</p>
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		<title>ホーリーマウンテン</title>
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		<pubDate>Thu, 31 Mar 2011 09:03:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>keisuke oosato</dc:creator>
				<category><![CDATA[日常日記]]></category>
		<category><![CDATA[映画]]></category>

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		<description><![CDATA[昨日は（も？）あまり仕事には集中できず。とはいうものの、手がかりを見つけることはできたので、無駄な日ではなかった。もう２週間も遅れている。それなのに、合間合間に美空ひばりの映像ばっかり見て過ごしてしまった。本当に震えるぐ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昨日は（も？）あまり仕事には集中できず。とはいうものの、手がかりを見つけることはできたので、無駄な日ではなかった。もう２週間も遅れている。それなのに、合間合間に美空ひばりの映像ばっかり見て過ごしてしまった。本当に震えるぐらい良かった。あと、武満徹。武満徹の作品は端から買っていきたいと思った。</p>
<p>夜、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「ホーリーマウンテン」を見た。とてもおもしろかったけれど、「映画としておもしろかった」という意味のおもしろさは無かった。実験映像を特集する展覧会に行ったら、全作品がまとめられたものを見せてくれた、という意味でのおもしろさは十分に味わったけれど。ひとつひとつのシチュエーションをきちんと映像にするということと、そのシチュエーションが他のシチュエーションと隣り合わせになることによる刺激が楽しかった。</p>
<p>ラストシーンも、キアロスタミ監督の「桜桃の味」と同じだけれども、「桜桃の味」の場合は、映画全体の文脈や、イランという国の文化を考えたときにとても素敵なカットだけれども、「ホーリーマウンテン」の場合は、単に「最後のカットがそういうシチュエーションである」というおもしろさだけしかない。それはそれで面白いんだけれども、それぞれのシチュエーションがひとつの世界観の中にまとまったときのダイナミズムは感じなかった。</p>
<p>とはいえ、こうなったら「サンタ・サングレ」も見てみたいんだけれども、あいにく下高井戸シネマではやらない。レンタルビデオ屋を探すしかないのかな。でもやっぱり、映画館の、大きな画面で見たいよなー。</p>
<p>帰りはとても冷たい北風が吹いていた。北風が吹いていると、「この風で、東京にもたくさんの放射性物質が舞っているのかな」とか想像してしまう。意識しないようにしながら、ものすごく意識している。やかんでお湯を沸かして湯気が出ているのを見ても、核燃料プールはこんな感じなのかな？とか考えてしまう。経堂で飲もうかとも思っていたけれど、あまりに風が冷たいので断念して、明大前のマクドナルドでアイダホバーガーを買って帰った。テキサスバーガーがけっこう癖のある感じで好きだったのだけれども、どうもあのインパクトに及ぶものはなかなか出てこないなー。</p>
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		<title>ベンダ・ビリリ！</title>
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		<pubDate>Sun, 06 Mar 2011 06:38:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>keisuke oosato</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画]]></category>

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		<description><![CDATA[ルノー・バレ＆フローラン・ドラテュライ監督の『ベンダ・ビリリ！～ もう一つのキンシャサの奇跡』。 アフリカの国・コンゴ民主共和国の首都・キンシャサの路上生活者たちが結成したバンド「スタッフ・ベンダ・ビリリ」。彼らの音楽が [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ルノー・バレ＆フローラン・ドラテュライ監督の『ベンダ・ビリリ！～ もう一つのキンシャサの奇跡』。</p>
<p>アフリカの国・コンゴ民主共和国の首都・キンシャサの路上生活者たちが結成したバンド「スタッフ・ベンダ・ビリリ」。彼らの音楽がアフリカを出て、ヨーロッパ進出を果たすまでのドキュメンタリー。彼らは戦争の影響なのか、足が無くて車椅子に乗っていたり、松葉杖をついていたりという人たちばかりだけれども、壊れかけの楽器で演奏するその音楽がとても陽気で、聴いているだけで体が動く感じ。さながら、アフリカ版「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」である。</p>
<p>ドキュメント自体が何か目新しいということではなかったけれども、この「ベンダ・ビリリ」のメンバーたちがとても良いし、彼らが暮らすアフリカの貧しい環境もきちんと描かれている。音楽は一見とても明るいんだけれども、字幕で出てくる歌詞を眺めると、悲しい歌だったりする。けれども、これはアフリカの国民性なのか、暗いことを歌っていても、必ず光が射す方向へ持っていくような展開なのが良い。戦争かなにかの影響で、川を隔てて別々に暮らすことになった兄妹の歌でも、さんざん貧しい境遇を歌った後に、「誰にでもツイてる日はあって、今日はアイツの番、明後日は妹の番なのかもしれないよ、だから生きよう」みたいな感じなのだ。ベンダ・ビリリのメンバー自体も、スタジオ録音中に保護施設が火事になってしまったり、色々大変なことはいっぱいあるんだけれども、どこか楽天的で前向きで、その生き様自体が音楽に反映されているのだろう。</p>
<p>このバンドのリーダーのおじさんが、すごく父性を持っていて、色々なストリートチルドレンの親代わりになっている。知性と品性も併せ持っていて、音楽をしながら、子どもたちに教育をしているのだ。その中でも、不思議な自作楽器を弾く少年ロジェとの関わりがすごく素敵だ。この映画は、ロジェが14歳のときに、リーダーに拾われるところから始まって、それからヨーロッパ進出までの５年の間、撮影されているのだけれども、これは言ってみればロジェの成長物語でもある。この作品の中で、ロジェは演奏家としても、人間としても、どんどん大人になっていく。映画の冒頭では少々不快だった音色が、途中からどんどん良い音になっていくのが、目に見えて分かる。フランスの音楽祭で、大観衆の中で陶酔したように寝そべって楽器を弾く彼の姿は、ストリートチルドレンというよりは、アーティストだった。そういう風に育て上げた、バンドのリーダーが、やっぱりとっても格好よいなーと感じた。</p>
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		<title>彼女が消えた浜辺</title>
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		<pubDate>Wed, 02 Mar 2011 08:46:40 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[映画]]></category>

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		<description><![CDATA[アスガー・ファルハディ監督の「彼女が消えた浜辺」というイラン映画を観た。 内容は、海水浴に行った１１人のメンバーうち、ひとりの女性が居なくなってしまうというものだけれども、かなり真に迫った心理サスペンスで、見終わった後も [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>アスガー・ファルハディ監督の「彼女が消えた浜辺」というイラン映画を観た。</p>
<p>内容は、海水浴に行った１１人のメンバーうち、ひとりの女性が居なくなってしまうというものだけれども、かなり真に迫った心理サスペンスで、見終わった後も、妻と寝るまであれやこれやとこの映画の話題をするほど、濃密な内容の作品だった。</p>
<p>「彼女が消えた浜辺」というタイトルが、原題でもこの通りなのかは分からないけれども、少なくとも日本人はこのタイトルを見て作品を観るわけで、当然オープニングから、「誰が、どういうふうに消えるのかな？」と考えながら物語を読み進めるわけだけれども、監督はそのことを見越した上で、色んな分かりやすい「餌」をひょいひょいと撒いていく。この撒き方が本当に上手で、気づいたら僕も物語の中に入ってしまって、一緒になってその状況の中でものを考えてしまって、変な話だけれど、いっぱい汗をかいた。</p>
<p>この映画はストーリーを書くと台無しになってしまうので、書かないけれども、見終わってエンドロールを眺めている間、僕の脳内のビデオテープはオープニングまで巻き戻されて、いままで撒かれていた無数の「餌」とはなんだったのか、振り返らないわけにはいかなかった。</p>
<p>ひとつキーテーマとして、「どうして人は嘘をつくのか」という問題がある。この映画で描かれるイラン人の一般的な気質は、基本的には行き当たりばったりで嘘をついてしまう、というものであるらしい。こういう仮定は良くないかもしれないけれど、もしこれが日本人の物語だったら、この映画の展開は異なっていただろう。また、もしアメリカ人だったら、それはそれで違っていただろう。浜辺にある海の家という、限定された箱庭のような環境の中で、イラン人の気質から文化、貞操観念、どういう目的の嘘なら正義なのか、家族や名誉のための嘘は善か悪か、などなど、人間が普遍的に抱えるさまざまな問題まで提起されて、それらがとても丁寧に描写されている。本当におもしろい作品だった。</p>
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		<title>ペルシャ猫を誰も知らない</title>
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		<pubDate>Sun, 27 Feb 2011 02:38:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>keisuke oosato</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画]]></category>

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		<description><![CDATA[バフマン・コバディ監督の「ペルシャ猫を誰も知らない」というイラン映画。 政治の影響でいろいろな表現活動が制約される中で、こっそり音楽活動をする人たちを追った、ほとんど実話をベースにしたフィクション。とりわけ、イギリスに行 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>バフマン・コバディ監督の「ペルシャ猫を誰も知らない」というイラン映画。</p>
<p>政治の影響でいろいろな表現活動が制約される中で、こっそり音楽活動をする人たちを追った、ほとんど実話をベースにしたフィクション。とりわけ、イギリスに行ってインディ・ロックをやりたいという男女のカップルが主人公。抑制されて情報も少ない中で、田舎くさい音楽をやっているのかなと思いきや、アイスランドでシガー・ロスと会うのが夢だという彼らの音楽は単純にかっこよくて驚いた。劇中には他にもヘビメタ、ブルース、ヒップホップ、ワールドミュージックなど、たくさんのジャンルのミュージシャンが出てくるが、どれもこれもしっかりやっている。この映画は、イランにはこんなに才能のある人たちが（くだらない政治のせいで）たくさん埋もれているんだよ！　というプロモーションの役割も兼ねている。音楽というか表現への情熱が伝わる、熱い映画だった。</p>
<p>これらのアーティストを売り出そうと奮闘するナデルという男の描かれかたが好きだ。ナデルは一見、儲け話に弱そうな感じの男で、外国の音楽や映画を密輸をしたり、そういう儲けの一貫みたいな感じで、あくまでも投資として地下ミュージシャンの支援をしているという風に見える。もちろん劇中では音楽への熱い想いをあらゆるところでぶちまけるのだけれども、圧倒的な早口でまくしたてるしゃべりかたで、見栄をはったり、どことなく信用できない感じである。ところが、入念に準備をしたのに演奏許可が降りなかったり、主人公をイギリスに出国させるための偽造パスポートを取得できなかったときの落ち込み方が、それはもう尋常ではないのだ。八方ふさがりになればなるほど、実はナデルという男の音楽への情熱は、嘘ではないという事が分かってくる。</p>
<p>ナデルは劇中でぽろりと、「本当は、俺の分のパスポートももらいたいよ」というようなことを口にする。劇中に出てくるミュージシャンたちは、実はほとんどの人が楽器も買えるし、外国に出るお金も用意できるし、車もあるし、といった人たちばかりだ。しかし、ナデルはそうではない。密輸をしたり、お酒を売ったり、そういうことで生活していて、自分の夢を自分でかなえるだけの力がない。彼はそのことを自覚しているから、才能のある人に自分の夢を託したいという部分があるのだ。失敗を取り戻すために、彼が一生懸命お金を貯めて買ったであろうバイクを、決死の表情で売りにいくシーンは、彼のそんな一面を表現していると思う。</p>
<p>才能のある人が、才能を発揮できない国でくすぶっている事へのいらだちということが、この映画のテーマのひとつなんだろうけれども、彼らは全体の中のごく一部であって、いらだちを自分で打開することができず、悶々としている人のほうが圧倒的に大多数で、ナデルはその象徴的な人物なのだ。彼の存在は、人間の音楽や表現の自由みたいなものへの欲求は揺るぎがないもので、抑えつけようのないものなんだ、ということを強く感じさせる。</p>
<p>この映画の冒頭では、監督が出てきて、この映画の仕組みを説明するシーンがある。新しい音楽をやる人に許可が下りないから、そのことをドキュメントで撮ろうと思う、などと、先に喋ってしまう。このやり方は、同じイラン人であるアッバス・キアロスタミ監督がしばしば用いる手法で、彼はキアロスタミ監督のもとで助監督をしていたというから、確実にその方法を踏襲しているんだと思うけれど、ストーリーが後に進むほど、作品全体にとって重要なシーンだと分かる。この映画も、音楽と同じように、無許可で、厳しい監視の目をくぐり抜けて制作されたものだと分かるからだ。つまり、この映画のモチーフは、この映画自身でもあるのだ。</p>
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		<title>悲しみのミルク</title>
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		<pubDate>Tue, 08 Feb 2011 04:42:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>keisuke oosato</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画]]></category>

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		<description><![CDATA[クラウディア・リョサ監督の「悲しみのミルク」というペルーの映画を、招待券をもらったので、観に行った。 お母さんを亡くした娘が、お母さんを弔ってあげるまでの、精神的な風景を丁寧に描いたお話。 このお母さんは、過去ペルーに内 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>クラウディア・リョサ監督の「悲しみのミルク」というペルーの映画を、招待券をもらったので、観に行った。</p>
<p>お母さんを亡くした娘が、お母さんを弔ってあげるまでの、精神的な風景を丁寧に描いたお話。</p>
<p>このお母さんは、過去ペルーに内戦があった時代に、ゲリラに性的暴行を受けた上に、夫を惨殺されてしまった。そのときちょうどお腹に宿っていたのが主人公の娘ファウスタであり、ファウスタはお母さんの苦しみを、母乳を通じて受け継いだと信じている。（実際にアンデスでは、「母乳で強い悲しみが伝染する」というような言い伝えがあるようだ。）そして、彼女は自分の身を守る為に、子宮の中にじゃがいもを入れて過ごしている。彼女は母をきちんと弔う為にお金が必要で、都会の音楽家の家でメイドさんをする。そこで出会う父親ほどの年齢の庭師との出会いが、彼女の苦しみの中にスッと入ってくるような存在で、彼女の心を少しずつ変えていく。街では今日も結婚式が行われている。</p>
<p>というような作品なんだけれども、とてもあらすじを書きにくい。というのも、この作品のおもしろいところは、ひとりの個人の心情の変化を描きながら、それらはすべて、もう少し大きな規模、つまりその時代に生きている同じ境遇の女性たち全体の心情を描くための比喩になっていることだからだ。そのための仕掛けとして、「母乳で強い悲しみが伝染する（話の中では恐乳病と呼ばれている）」という設定がある。</p>
<p>ファウスタは、母の苦しみが伝染しているため、母のトラウマ的な風景を見ると、鼻血が出てしまう。それは、あらすじ上はただの鼻血なんだけれども、その鼻血は、おそらくペルー内戦を通じて陵辱されてしまったすべての女性の血でもある。そういう、多くの人が被害に遭ってしまった、目に見える形ではなかなか引き継がれてこなかった歴史上の悲しみや遺恨を、すべて一身で背負って、現実世界の中で、実際の現象として形にしてしまうのだ。そういうふうに描かれるさまざまな感情が、劇中で繰り返し行われる「歌」と混ざり合って、ますます暗示的に表現される。</p>
<p>じゃがいもを子宮に入れるくだりも同じで、子宮というのは本来何かを育てるためにあるものなのに、そこから生えた芽を切り取ってしまう。じゃがいもの芽をはさみで切る行為自体は、本来たいした作業じゃないはずだけれども、彼女はグッと力を入れて、苦しそうに切る。それは、彼女だけではない人たちの、すべての性的な恐怖心の比喩でもあるし、本来そこに身ごもるものでなかった命のことを暗示しているようでもある。</p>
<p>つまりこの作品は、個人の話というよりは、歴史の移り変わりの中で、どういうふうに世代的な悲しみや苦しみが引き継がれていくのかということを語っている。その一方で、劇中には結婚式のシーンがたくさん描かれる。それは実に陽気なパーティの風景である。結婚式や、お葬式というのは、家族が「引き継がれていくもの」ということを象徴する儀式だ。ファウスタは、悲しみや苦しみだけを引き継いでいるから、お葬式にばかり目が向いてしまうけれども、その一方で、畳み掛けるように、さまざまなカップルの結婚式が執り行なわれる。明るい音楽を歌い、楽しく踊る。時代は変わって行くのだ。引き継がれるのは悲しみや苦しみだけではないのだ。そうした中で、ファウスタが、さまざまな苦悩を乗り越えて、じゃがいもの花に顔を寄せるシーンは、とても美しくて、希望に満ちあふれていた。良い映画だった。</p>
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		<title>ぼくら、20世紀の子どもたち</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Jul 2010 16:07:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>keisuke oosato</dc:creator>
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		<description><![CDATA[ヴィターリー・カネフスキー監督。前作「動くな、死ね、蘇れ！」「ひとりで生きる」の続編。ロシアのストリートチルドレンや、犯罪を犯して収監された少年や少女たちを追うドキュメンタリー作品。 たくさんの、小学生くらいの子供たちが [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ヴィターリー・カネフスキー監督。前作「<a  href="http://www.keisukeoosato.net/archives/1373">動くな、死ね、蘇れ！</a>」「<a  href="http://www.keisukeoosato.net/archives/1374">ひとりで生きる</a>」の続編。ロシアのストリートチルドレンや、犯罪を犯して収監された少年や少女たちを追うドキュメンタリー作品。</p>
<p>たくさんの、小学生くらいの子供たちが出てきて、缶ビール片手にタバコを吸ったり、窃盗の自慢をしたりする。そんな話をひと通り聞いた監督は、どの子にも、じゃあ好きな歌を歌ってごらん、としむける。ボロボロの赤いセータを着た、目がくりくりして可愛らしい少年が、ニコニコしている。ところが歌いだすと、とたんに悲しい目をして、ものすごく暗い、明日のない歌を歌ったりする。明るい歌や、大人びた歌、何を歌うかはその子供によって違うけれど、歌っている間だけ、子供の心象風景をのぞくことができる。</p>
<p>犯罪を犯した少年や少女の中には、前作まで少年ワレルカを演じていたパーヴェルもいる。彼も窃盗を繰り返し、収監されていたのだ。なぜ国際的な映画祭で評価された映画の主役が、このような状況になったのか、それは分からない。けれど、事実として彼はその中にいて、これまでの映画の役柄と同じ、悩ましげな表情をしている。そして、収監されていることを聞いた、前作の少女役の女優ディナーラが駆けつける。そして、やはりふたりで歌を歌う。その歌は、「動くな、死ね、蘇れ！」のラストで、ふたりが線路で歩きながら歌った歌。パーヴェルの表情も、このときだけは優しくなる。</p>
<p>人にとっての歌の意味、そして監督が、彼らやほかの子どもたちに歌わせる意味を考える。歌とはつまり、「内面の居場所」といって、良いものなのではないか。たとえ現実のどこかの場所に、居場所がなかったとしても、歌っているときだけは、自分の内側にある、自分だけの居場所に、瞬間的に帰ることができる。だから、前作でソビエトに抑留されていたヤマモトは日本の民謡を歌ったし、子どもたちは、歌うことで、その心象風景を表に出せていたのではないか。</p>
<p>パーヴェルにとって、主演していた映画の中の歌が、その「居場所」になってしまっているという現実が、とても残酷に感じられた。パーヴェルは監督に「次の台本はできたの？」と聞いたり、ディナーラに「刑期を終えたら、映画学校に行きたい」と言ったりする。自分の重要な「居場所」であった、映画の世界に戻りたいのだ。けれど、現実にはそれができなさそうな、彼の繊細さや、弱さがある。だから現実に、収監されてしまっているのだ。彼がもう映画の世界には戻れないことは、彼自身も多分、分かっているはずだ。皮肉なことにその絶望が、また彼の魅力を、滲みださせているという感じがする。</p>
<p>これは完全に想像だが、カネフスキー監督は、そのことに対する何かしらの罪の意識みたいなものがあるのではないかと思った。この３部作の圧倒的なリアリティや魅力は、明らかに、主役であるパーヴェルによるものが大きかった。ある意味、監督は、もはや彼なしで映画は撮れないというくらいの、とんでもない逸材を見つけてしまったのかもしれない。でも、それは、パーヴェル自身の人生に、結果的には、あまり良い影響を与えなかったのかもしれない。そういう部分と、カネフスキー監督が、その後、１本のドキュメンタリーを撮って以降、映画界から姿を消してしまったことと、何か関係があるのかもしれないな、と。</p>
<p>こういう想像をするのは、結局カネフスキー監督の作品は、それくらい、現実と虚構の境界線が曖昧なのだ。監督自身の実体験の延長線上に、最初の２作があり、しかしフィクションであるはずのその世界は、確実に、ノンフィクションの世界である今作と繋がってしまっている。主役を演じたパーヴェルは、役柄である少年ワレルカ自身だったかもしれないし、ワレルカはパーヴェルだったのかもしれない。虚構と現実のあいだをさまよう人間劇を描ききってしまったこの３作を観て、こういう映画に出会えてよかったと心底思ったし、同時に映画ってこわいなとも思った。</p>
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		<title>ひとりで生きる</title>
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		<pubDate>Tue, 13 Jul 2010 22:50:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>keisuke oosato</dc:creator>
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		<description><![CDATA[ヴィターリー・カネフスキー監督「動くな、死ね、蘇れ！」の続編。その後の少年ワレルカと、亡くなった少女ガリーヤの妹ワーリャの話。あまりにも素晴らしかった。これまでこの映画を観たことがなかったことを悔いたけれども、今出会うべ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ヴィターリー・カネフスキー監督「<a  href="http://www.keisukeoosato.net/archives/1373">動くな、死ね、蘇れ！</a>」の続編。その後の少年ワレルカと、亡くなった少女ガリーヤの妹ワーリャの話。あまりにも素晴らしかった。これまでこの映画を観たことがなかったことを悔いたけれども、今出会うべきものだったのかもしれない。</p>
<p>前回の映画が、少年的な、反抗期的な衝動を描いているとすれば、今回は主人公の成長に合わせて、青年期の色々な問題を描いている。それは恋愛であったり、孤独であったり、社会との関わりだったり。案の定、少年ワレルカは学校で悪さをしてしまい、警察に追われ、遠くの街で働くことになって、そういうワレルカの行動に、ワレルカのことを愛するワーリャという少女が絡んでくる。</p>
<p>なんだか、悪い夢を見ているような映画だった。ある心情の描写をするときの、シチュエーションや、ロケーションの選択が、あまりにも的確で、全体的に強い既視感を感じた。ストーリー展開というのもあるんだけれども、それ自体が面白い、という話ではない。しかし、その話の流れに乗っかって、畳み掛けるように、隠喩的な映像が折り重なってきて、最後のほうは、けっきょく何が本当で、何が嘘なのか、という事実関係はどうでも良く、とにかく主人公ワレルカの心情は一体どんなものであるか、ということの描写に専念している。</p>
<p>ワレルカは、大人になっていくに従って、ずっと心の中にあった、爆弾みたいな衝動を、もう何か頑丈な箱に詰め込んで、押さえつけるように鍵をかけなければならない。社会との折り合いもつけなければならないし、どこかに居場所を見つけなければならないけれども、あまりに自分の出来が悪いので、帰る家はないことは自覚している。ふつふつとわき上がる不安な気持ちや孤独感を、誰かに埋め合わせてほしいと思うのだけれども、あまりにも余裕が無くて、自分のことで精一杯なので、視界の中に他人が入ってこない。</p>
<p>合間合間に、日本の民謡が挿入される。これは「動くな、死ね、蘇れ！」でもそうだったのだけれども、今回はより執拗に、意味ありげに挿入される。ヤマモトという日本人が、抑留されて、生気を失った目で、登場してくる。特に彼が何を喋るというわけでもないし、民謡を彼が歌っているシーンはどこにもないのだけれども、故郷という足場を失って、それでも生きなければならない、真っ暗なトンネルを光のない方向に向かってとぼとぼ進んでいるヤマモトは、どこかワレルカと境遇が似ている。映画の中で、様々なシチュエーションで、ヤマモトとワレルカは同じ空間に存在させられる。ヤマモトの存在は、ストーリー展開から考えると居ても居なくても関係ないんだけれども、ワレルカにとってこの日本人の存在は、重要なものだったはずだ。</p>
<p>そういう、折り重なる隠喩的な映像のひとつひとつが、最後の「ワレルカの独白」に、すべて結実していく。彼の独白については、できればここで書くよりも、観た人同士で、いろいろ話し合いたいものだ。表面上の余計な小細工をするのではなく、ただ単に、映像と映像を繋ぎ合わせることで表現されるものの奥深さや、魅力を感じさせる作品だった。観終わった瞬間に、はやく、この映画をもう一度、始めから見直したい、または、自分の人生の中で、折りに触れて繰り返し見たいと思った。</p>
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