アドリアナ・ヴァレジョン展
16時50分 起床
う~む…。
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ブラジルの女性作家。この人の作品は前に、東京都現代美術館のカルティエ美術財団展で見たことがある。
作品はタイルを敷き詰めている様子を、油彩グラフィックや立体で表現する。このタイルというのがポルトガルの工芸品らしく、そこにブラジルの重い歴史が隠れているらしいのだが、そういう背景は、東洋人である僕にはよく分からない。
タイル作品といっても趣向は大きく2つに分かれる。ひとつは、タイルで敷き詰められているプール(または温泉?)を描く。もうひとつは、そのタイルを傷つけてみると、裏に内臓らしきものがびっしりひしめき合っているというものである。他にはタイルでない絵も、破れて中から内臓が出てくるというのもある。
この人がタイルというモチーフを使うときには、それは”何かを覆うもの”という意味合いが含まれているのだろう。絵を描くということについても、”塗る”というよりは、”絵の具という層(レイヤー)を重ねる”作業である、という考えが根底にあるような気がする。
個人的には タイルで敷き詰められているプールの絵に感銘を受けたのだが、この絵は表面上、タイルと水以外の要素が無い。きわめて静かで、美しくて退屈だ。しかしその美しい退屈さは、「嵐の前の静けさ」に近い感覚を与えてくれる。つまり、それはただ静かなだけではなく、静けさに不自然な点が多いということだ。何に近いのかといえば、デ・キリコの不条理な世界に似ている気がする。つまり夢の世界だ。
現実のものをすべてタイルで覆い尽くして、そこに綺麗な水を張れば、確かにそれは素敵な泉で、夢の世界になる。しかしそれは、やはりどうしても奇妙である。そのように感じる機会と言うのは、現実で多いような気もしてくる。たとえばバラバラ殺人事件が起こったマンションは、その形跡がまったく見つからないように改装して、次の住居人を待っている。そういう感じだ。
タイルというモチーフは、そうした世界観を示すには、確かに最も的確なものだったと思う。やはりコンクリートよりも、タイルなのだ。あの連続性、硬質感、冷たさ、清潔さ、そういうものを内包したモチーフだ。同じ原美術館にある常設のタイル作品、レイノーの「ゼロの空間」も似たような印象を与えるが、とにかくどちらも病的だ。







