夏への扉~マイクロポップの時代展
水戸美術館 「夏への扉~マイクロポップの時代」展
ここの美術館の展示は毎度、興味深い。展示環境もいいし、キュレーションもいいし。学芸員は優しい。好きな美術館のひとつだ。
マイクロポップという言葉は、かいつまんで言うと「断片の統合」という意味があるようだ。色んな意味での「でかいもの」は作れないから、まあこじんまり行きましょうということだろう。でかいものに価値は置かないし、置けないので、日常の継続に重きを置く。そういう傾向が、最近の現代美術にはある、とキュレーターの松井みどりさんは言っている。以上は僕の解釈だが、こういうことを言うのに、松井さんは説明が難解すぎやしないか。目の前に繰り広げられるいたってシンプルな作品をまとめるのに、「哲学者ジル・デゥルーズとフェリックス・ガタリがどうたらこうたら…」なんて言う必要があるのか。
展示作家によって個性がバラバラで、彼等に共通性を見出すのは、正直むずかしかった。
こじんまりなのは良い。日常の継続には大きな意味がある。しかし、その中には「手抜き」と表裏一体の作品もあった。美術界では流行りの「アニメキャラ」や「漫画」を用いたドローイングや絵画群がある。そこに存在する「ドローイングやキャンバスにアニメキャラを描いたら評価される」という作り手の安心感そのものが、どうも僕には、手抜きに感じられたのだ。
これらの作品がことごとくヘタウマというのも、手抜きに思う一因だ。ヘタウマは素晴らしいというブームが、美術を圧巻している。ハッキリ言って、この種の作品は僕にとっては、その人の文脈の中でしか評価ができないと思う。つまり、「圧倒的に絵の上手な会田誠が、小学生みたいなドローイングを描いた」とか「ヘンリー・ダーガーが、ヘンタイ趣味の想像世界を、誰にも見られずに数百枚描いて死んだ」といった文脈である。
夏目漱石の往復書簡は、夏目漱石の偉大な小説が前提としてあって、初めて意味を持つ。しかし今回のいくつかのドローイング作品は、小説も書かないのに、往復書簡だけ先に書いて、それを素晴らしいと言っている。今回はとうとうそれに、美術評論家がマイクロポップなんて冠をつけた。マンガが描いてある落書きを、外国人の画商がオリエンタリズムの誘惑に駆られて数十万で買うんだろう。正直、おもしろくない。
やはり美術は「表現力」という、不可視だがハッキリと見える力に支えられている分野だと思う。奈良美智や野口理佳、K.K.の作品はその意味で圧倒的だった。こじんまりと手抜きとは違う。安心感よりも不安感が強いほうが、面白い。K.K.の作品はいつも何かの不安にさいなまれているようだ。奈良さんの作品は、一枚の絵に賭ける執念のようなものが感じられた。作品に対する安心感がないから、徹底的に表現を詰めるし、執念も継続できる。その結実が表現力なのであって、その密度や、ささげられた時間に、僕は感動することができる。







