あの天井の
今年は青色申告をするので、月1回、帳簿のつけかたを勉強しに行っている。先日は決算処理のやりかたを教わった。といっても、大方は会計ソフトまかせで、難しいことはなーんもない。ただ概念だけを頭に叩き込めば良いという感じ。自分の1年間の収入とか経費とか、一覧で表示されるのも不思議な感じだが、その並べられた数字の羅列が「自分は社会のなかで生きているんだなあ」ということを実感させてくれる。こういうことは、とてもクリエイターらしからぬ作業であるには違いないが、それでも社会的に長生きをするための基礎的な素養になるものだと思っている。
横尾忠則を取り上げた番組にいたく感銘を受ける。彼の作品って、生理的にものすごくしっくりくるんだよなー。最近の一連の絵画作品にしても、なにかこう、味わい深さがにじみ出ている。あのぐらい、自分としっかり向き合って、自己表現を突き詰めるということが、自分にもできたらと思う。ひるがえると自分の中途半端さというか甘さにへこむ。
映画も、小説も、マンガも、見ないと決めたら何年間も見ない。映画は、今年ちょっと見るようになったけれど、小説については全然読んでない。なんでインプットを拒絶しているのか自分でも分からないが、あまり良いことではないことは自覚している。ところがようやく、何か読みたくなってきた。こういうのは衝動的なもので、すぐに近くの小さな本屋に行って、それで無意識に手に取ったのが、なぜか山崎豊子の「沈まぬ太陽<御巣鷹山編>」だった。俺はホリエモンか。ていうか、結局”小説”じゃないし(笑)なんで山崎豊子なんだ。もっと若者らしい、ステキでカジュアルなのは選べないのか。本を選ぶ段階で、いやになる。いや、面白かったけどさ。
要するに、自分の趣味とか趣向が、自分で気に入らないわけだ。そんなことがあり得るのだろうか。趣味なんだから、好きなものに決まっているではないか。好きでないものは趣味とは言わない。でも自分の見るものや選ぶものを、常に天井の方から眺めている自分がいる。僕の一挙手一投足をまじまじと観察し、突っ込みを入れている。あの「天井の自分」、どっかに消えてほしいな。あれのせいで色んなことが苦しい。あれのせいで好きなものを好きと思えない。連続的な興ざめ状態である。その状況でものを作っているわけで、よくも悪くも影響は色濃い。話は戻ると、横尾忠則のように、もっと自分に向き合いたいのだ。自分の好きなものを好きと言い、それをただ表現してみたい。自分の根本的な欲求はそこにある。言葉にすると簡単なことに思えるんだけどなー。








